動きをどう捉へるか

ベルグソンを読むと、いろいろな考へが湧いてくる。彼が、問題を根本のところまで遡つて考へ直してゐるからだらう。例へば、次の一節。(Œuvres p.1257)

 

S'agit-il du mouvement? L'intelligence n'en retient qu'une série de positions : un point d'abord atteint, puis un autre, puis un autre encore. Objecte-t-on à l'entendement qu'entre ces points se passe quelque chose? Vite il intercale des positions nouvelles, et ainsi de suite indéfiniment. De la transition il détourne son regard.
 運動についてはどうか。悟性はそのなかから一系列の位置しか取りあげず、まず一つの点に到達し、それから別の点に到達し、それからまた別の点に到達する、というふうになっている。悟性に対して、それらの点のあいだに何かおこなわれていると意義を申し立てればどうか。悟性はすぐさま幾つも新しい位置をあいだに挿み、そうやって無際限に進む。推移からは悟性は眼をそらす。  (『思想と動くもの』岩波文庫版 17頁)

 

人間の頭は、物に働きかけるやうに出来てゐるので、動きそのものには関心を持たず、動く物がどこにあるか、どこに移るか、どこを通るかにしか興味を持たない。この事実を、そんな人間の頭に分かせるために、ベルグソンが苦労してゐる様子が窺へる文章だとも言へよう。彼が、科学者たちと繰り返した問答を思ひ起こしながら書いたものかも知れない。

 

それは、ともかく、最近テレビ番組でよく見かけるビデオで、画面が大きく変化してゐるのに、それがなかなか見つけられないといふもの(「アハムービー」)があるが、かうしたビデオの特徴は、物が移動するのではなく、その場で色や形を変へるといふ点にある。これも、ベルグソンが言ふやうに、人間の頭が運動あるいは変化そのものではなく、位置の変化を見てゐるからだ、と言へよう。

 

しかし、運動の軌跡をたどる以外に、人間にとつて動きを知る方法があるのか。ベルグソンは、運動を知的に表現するのではなく、運動そのものを見つめろ、と説く。さうした「直観」が、本当に可能なのか。それは、問題ごとに、直観によつて得られたものから判断するしかない。

 

かうした考へ方を、歴史に適用すると、どうなるか。歴史は事件の連続ではなく、大きな一つの流れである。それを知るには、どうすれば良いか。なぜ、人は物語を好むか、等々。