将来の予測はどこまで可能か

Mark Buchanan "NEXUS"を読み始めたら、冒頭に、Karl Popper の"The Poverty of Historicism"の話が出てきた。歴史の予測は不可能であるといふことを、次のやうな議論で示してゐるといふ。先づ、原子爆弾の例に見られるやうに、人間の知識の増加は歴史の流れに影響を与へる。また、我々は、自分の知識が増える様子を予測することはできない。知識が増すとは、何か新しく予測できないものを発見することを意味するからである。将来の発見を予見できたとすれば、すでにその知識を持つてゐることになるだらう。つまり、知識の変化が歴史に影響を与へ、その変化は予測できないのだから、我々は歴史を予測できないことになる。

かうした議論と決定論的な自然科学とは、どう結び付くのだらうか。

しかし、そこまで議論を広げず、自然科学の世界に限つても、予測はできる場合もあるし、できない場合もある、といふのが実態なのだ。実は、簡単な力学系でも三つ以上の物体が関与する多体問題になると、一般には解析的に解くことができないとされる。かうした系では、わづかな変動が系全体の挙動を大きく変へる。どんな計測にも誤差が避けられないことを考へると、この世の中にある現実的な問題は、厳密な予測が不可能だとさへ言へる。

それでは、何故、我々の周囲には、予測可能な出来事しか起きないやうに思はれるのか。我々が法則性に関心を持ち、無秩序な現象には気を留めないからだ、といふ考へ方もあるだらうが、複雑な挙動を示す系でも、要素の数が大きくなり、その中にある種の構造が生まれると、巨視的な安定性を示すことが、その理由ではなからうか。いづれにせよ、ある程度の安定的な系が存在できる環境でなければ、我々もこの世に生まれては来なかつただらう。

統計力学の例にも見られるやうに、微視的には無秩序な系でも、巨視的には一定の法則性を見出すことが可能な場合もある。系を構成する要素が少ないほど分析が容易だとは、必ずしも言へない。何が予測でき、何ができないかは、個別の問題ごとに検討する必要があるのだらう。