立法者としての国民

大分県での教員採用試験の不正が世の中を騒がせてゐる。かうした事件が示してゐるのは、日本における民主主義の未熟だ。

権力を持つ者に擦り寄つて特別な扱ひを受けようとすること、「うまくやる」ことが、日本では、大人の智恵の代名詞のやうに思はれてゐる。「清濁併せのむ」のが、立派な政治家だと考へられてゐる。それでは、公の決まりはどうなるのか。単なる建前に過ぎず、それに文字通り従ふのは馬鹿正直、さらに言へば、単なる馬鹿だ、といふことか。

カントは、自らの行ひが全ての人の範となるやうに行動せよ、と主張したが、これを単なる理想主義として片づけてはいけない。民主主義の基本である、立法者としての国民といふ考へ方から出た主張なのだから。

自由であるとは、自ら律するといふことだ。民主主義とは、国民が自ら公の決まりを定め、それに従ふといふ仕組みだ。代議制は、その一法でしかなく、また、公の決まりの一部である成文法を定める手段たるに留まる。慣習やしきたりといふ、文字にならない決まりの果たす役割は、非常に大きい。かうした不文律を成り立たせるのは、国民の日々の行動だ。つまり、国民は、選挙を通じて代議士に法律を定めさせるだけではなく、その毎日の行ひで、日本国民として従ふべき決まりの在り方に大きな影響を及ぼしてゐるのだ。

なぜ、自らの行ひが全ての人の範となるやうに行動するのか。自由と並ぶ重要な民主主義の原理は「平等」である。この原理によれば、ある人がして良いことは、他の人がしても悪いはずがない。しかし、全ての教職試験受験者が不正をはたらくとどうなるか。教員としての資質を欠く人物ばかりが教職に就き、日本の教育は崩れ去る。従つて、良い教育を求める国民であれば、試験の不正を許すことはできないし、まして、自分がさうした不正を求めたり、これに荷担したりすることは許されない。自らに許してはならない。

不正が後を絶たないのは、一般の国民も、権力を持つ公職にある人達も、自律といふ民主主義の基本が分かつてゐないからだらう。自分だけなら、少しだけなら大目に見て貰へるだらう、といふ考へ方が民主主義を滅ぼすのである。

誰も見てゐないといふことは、あり得ない。お天道様も、村のはづれのお地蔵様も見てござる。何より、自分の心が見てゐる。