Kauffman と Bergson

前回は、「当然のことながら、Kauffman は、ベルクソンではないことが分かる。」と書いたが、それは、一つには、カウフマンが、自然の創造性そのものを「神」と呼ぶことが、ベルクソンの立場とは異なると感じたからであつた。ベルクソンの神は、信仰の対象となり得るやうな「人格」を備へた神であるはずだ。

 

しかし、『創造的進化』を読み直してゐると、次のやうな一節にぶつかつた。("Evolution Créatrice" p.249)

Si, partout, c'est la même espèce d'action qui s'accomplit, soit qu'elle se défasse soit qu'elle tente de se refaire, j'exprime simplement cette similitude probable quand je parle d'un centre d'où les mondes jailliraient comme les fusées d'un immense bouquet, - pourvu toutefois que je ne donne pas ce centre pour une chose, mais pour une continuité de jaillissement. Dieu, ainsi défini, n'a rien de tout fait ; il est vie incessante, action, liberté.

そこで、行動は解体しつつあるにせよふたたび出来あがりつつあるにせよとにかく到るところでおなじ種類の行動がなされているものとして、もっぱらそうしたありそうな相似を表現するために私はこんな風に語ってみているわけである。一つの中心があって、もろもろの世界は巨大な花火からの火箭(ひや)のようにそこから噴きだす。ただし私のここで立てる中心とはものではなく、噴出の連続のことだとする。-神というものもこのように定義されてみると何ひとつ造ったわけではなく、不断の生であり、行動であり自由なのである。(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫 p.295)

 

ここの表現を見る限り、カウフマンの神とベルクソンの神とは非常によく似てゐる。『道徳と宗教の二源泉』では、ベルクソンの定義は変化してゐるやうにも思はれるので、両者の神は同じであると即断するのは避けなければならないが。

 

また、ここでベルクソンの持ち出してゐる「噴出」の比喩は、現代の物理学が言ふ「ビッグバン」を思ひ起こさせる。「ビッグバン」も、一つの仮説に過ぎないものだとはしても。

 

なほ、上に引いた翻訳で、「神というものもこのように定義されてみると何ひとつ造ったわけではなく、」といふ部分は、「何ひとつ造ったわけではなく」ではなく、「決して出来上がつてゐるものではなく」と訳すべきところだらう。英訳では、 "God thus defined, has nothing of the already made" となつてゐる。