人工知能は可能か

8月14日号の Nature 誌に、Andrew Hodgesによる、Ernest Nagel & James R. Newman "Gödel's Proof"の書評が載つてゐる。In Retrospect と題された、新刊ではなく、以前に刊行された名著を紹介する欄だ。この本は、ゲーデル不完全性定理について解説したもので、1958年に出版された。

 

ゲーデル不完全性定理は、正しい数学の言明には、形式的な証明が不可能なものがある、といふ主張で、バートランド・ラッセル等の、数学の体系を純粋に論理的に導き出さうといふ試みが、不可能であることを示すものだ。

 

Ernest Nagel & James R. Newmanの本では、コンピュータについては触れられてゐないが、人工知能については、簡単に、無理だと片づけてゐるらしい。コンピュータの原理的な可能性を示したチューリングは、ゲーデルの定理は人工知能の実現の可能性とは無関係であると考へてゐたが、ゲーデル自身は、彼の定理が、人間の心を機械で実現することは無理であることを意味すると思つてゐたやうだ。この問題については、現在でも、専門家の意見は分かれてゐる。

 

そもそも、「知能」あるいは「心」とは何を指すのかについて、整理することが、混乱を避けるためには有益だらう。この定義いかんで、問への答も違つて来るだらう。将棋を指すのが知能だとすれば、既に人よりもうまく将棋を指すコンピュータは存在してゐる。知能とは、創造性のことである、あるいは、意識のことである、とすれば、少なくとも現時点では、否定的な答になるだらう。

 

創造性については、例へば将棋のソフトは、人が気付かないやうな手筋を見つけることもできるので、創造性を持つてゐるのだ、といふ主張もあり得る。しかし、ソフトが手筋を見出す仕組みと、人間の手筋の考へ方とが、全く異なるのは、間違ひない。ソフトは、単純化して言へば、虱潰しに全ての手を指してみて、その中で勝つといふ条件に合ふものを探すのである。人間は、むしろ、最初に妙手(の候補)を思ひつき、それを後から論理的に検証する。ソフトは、問題を解きながら、その問題の重要性を意識することはないだらうが、人間にとつては、問題の重要性を知ることは、問題を解くといふ作業の一部だといふべきだらう。

 

行動の意味とか重要性まで含めて考へるときには、コンピュータよりもロボットの方が興味深い対象だと思はれる。身体を持つことで、外界との係り方も、より複雑なものとなるからだ。脳と半導体製のプロセッサとでは、仕組みは全く異なるが、そこには何らかの共通性が生まれ得るのか、それとも、生物と機械の差は本質的であり、越え難いのか。技術の進歩が、かうした問を考へるための材料を提供して呉れるといふ点では、現代に生まれた我々は、過去のどんなに優れた哲学者も持ち得なかつた機会を与へられてゐるのだと言へる。