身体はどこまで広がるか

Nature 誌6月17日号に、猿の脳に電極をつけて、ロボットの腕を動かさせる実験の論文 "Cortical control of a prosthetic arm for self-feeding" が載つてゐる。ウェブサイトでは、実験の様子のビデオも見ることができるが、ロボットの腕を使つて上手に餌を食べてゐる。新しい餌に手を伸ばす前に、手に付いた餌を舐めたり、口から落ちさうになつた餌を手で押し込んだりする様子も見られ、これはロボットの腕を自分の体の一部として組み込んだのだ、といふ説明がついてゐる。
http://www.nature.com/nature/journal/v453/n7198/suppinfo/nature06996.html

 

この実験で、猿はロボットの腕といふ道具を使つてゐるのだらうか、それとも、ロボットの腕は猿の身体の一部になつたのだらうか。かうした問ひ方は、誤つてゐるのかも知れない。道具も、使ひ慣れれば身体の人間の一部になるからだ。例へば、眼を瞑つて棒を持ち、その先で物に触れると、あたかも棒の先に触覚が生じたやうに感じる。どこまでを自分の身体と捉へ、どこまでを外の世界と感じるかの境目は、意外に不分明なのではないだらうか。

 

ベルクソンは、『精神のエネルギー』に収められた講演「魂と身体」のなかで、かう言つてゐる。

それでは自我とは何でしょうか。間違っているにせよ、正しいにせよ、自我とはそれに結合している身体をあらゆるところではみ出し、空間と時間の両方で身体を超えていると見えるものなのです。まず第一に自我は身体を超えるのですが、それはわれわれおのおのの身体はその限界を作っている明確な輪郭のところで止まってはいますが、他方、我々の知覚能力、特にみる能力によって、われわれは自分たちの身体をはるかに超えたところへ行くことができるからです。われわれは星の世界まで行くのです。(宇波彰訳レグルス文庫版42頁)

 

見方によつては、詭弁とも取られさうな発言だが、ベルクソンは、これが「常識の直接的で素朴な経験」だと述べてゐる。上記の実験は、ベルクソンが明確だと言ふ身体の輪郭さへも、変はり得るものであることを示してゐるやうに思はれる。さうした身体の伸び縮みを可能にするのは、心の持つてゐる柔軟性だらう。その意味でも、我々の心が身体を超えてゐるのは、確かだと言へるのではないか。そして、猿にも自分の身体の範囲を決め直す力があるのだとすれば、我々の心が身体を超える力を持つことの基盤には、生物が共通に持つてゐる生命力とでも呼ぶべきものがあるのではないだらうか。