加藤周一(1919-2008)

昨日、午後、加藤周一さんが亡くなつた。享年89。

 

加藤さんの本で、最も読まれたのは何だらうか。作品としては『日本文学史序説』を一番に挙げるべきなのだらうが、売れた数では、『羊の歌』と、案外、『読書術』かも知れない。

 

この二つは、特に学生の頃に、何度も開いた。『羊の歌』は、「仏文研究室」といふ章を繰り返し読んだ。渡辺一夫森有正、三宅徳嘉、そして小林秀雄が登場する、辰野隆の話のところなどを読み返しては、その度に、当時の自分が置かれてゐた状況と引き比べて溜息をついた。傍目から見れば、むしろ羨むべき境遇にゐたのだが。

 

「仏文の研究室には、秀才が集まっているんですよ」ともいっていた、「渡辺とか、森とか、三宅とかね、これはみんな仏文はじまって以来の秀才だ。ぼくはわからないことは、渡辺に訊きます。何でも知らないことはないね。小林(秀雄)もよくできたが・・・・・これは渡辺とちがって、教室にちっとも出て来ない。家で本ばかり読んでいる。ぼくの家の本を持っていって、煙草の灰で汚してかえしてくるんだ。実によく勉強したな。試験をすると、講義に出ていないから、できませんね、それで通して下さいというのだから、ひどいものだ。卒業論文だけは書いて来て、とにかくこれを見て下さい。見ると、驚いたね。これが素晴しい。最高点だ。渡辺・小林・森・・・・・森君はデカルトとかパスカルとかいっていてね、これがまた凄い秀才ですよ、仏文にもこういう人が出て来なくてはいけない、むずかしくて何だかよくわからないけどね・・・・・」

 

しかし私がいちばん強い影響を受けたのは、おそらく、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授からであったにちがいない。渡辺先生は、軍国主義的な周囲に反発して、遠いフランスに精神的な逃避の場をもとめていたのではない。そうするためには、おそらくフランスの文化をあまりによく知りすぎていたし、また日本の社会にあまりに深く係っていた。日本の社会の、そのみにくさの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていたのであり、自分自身と周囲を、内側からと同時に外側から、「天狼星の高みから」さえも、眺めようとしていたのであろう。それはほとんど幕末の先覚者たちに似ていた。

 

『読書術』は、今では岩波現代文庫に収められて、立派な古典になつてゐるが、当時は多湖輝氏の『頭の体操』や五味康祐氏の『五味人相教室』などと同じ、光文社のカッパ・ブックスの一冊で、題名も『頭の回転を良くする読書術』といふものだつた。ここにも、小林秀雄が登場する。下に引用する部分のほかに、「むずかしい本を読む「読破術」」といふ章では、例として、『鉄斎』や『モツアルト』が出てくる。

 

いま言ったように、私が速読法に熱中し、一日一冊主義を自分に課していたころ、小林秀雄さんが私達の高等学校へ講演にきたことがあります。私は、一日一冊主義を守るためには、すべての外国語の本を翻訳で読むよりほかないと考えていました。ところが小林さんは、外国語の本を読むのにも、一日一冊を片づけられる程度のはやさがなければ、そもそも外国語の知識というものは使い道にならない、という演説をしました。どうすればそういうはやさで外国語の本を読むことができるか。教室で読むように、ていねいな読み方をしていたのでは、らちがあかないでしょう。翻訳のある小説を買ってきて、原書を右手におき、翻訳書を左手において、左の翻訳書を一ページ読んでから、右の原書を一ページ読む、字引は使わない。わからないところはとばす--そういうやり方で一日一冊を読んで一年に及べば、おのずから翻訳なしに外国語の本を一日一冊片づける習慣がつく。おのずからその要領をつかむこともできるようになるだろうというのです。私はその方法を実行してみました。これが外国語を学ぶのに、もっともよい方法だというのではけっしてありません。背に腹はかえられなかったのです。

 

加藤氏は、『続羊の歌』に、かう書かれた。(184頁)

私は血液学の専門家から文学の専門家になったのではない。専門の領域を変えたのではなく、専門化を廃したのである。そしてひそかに非専門化の専門家になろうと志していた。

 

学生の頃、これを読んで、こんな失礼な感想を書いたことがある。「加藤周一が、自分は専門化を廃したと言つた。それで彼は二流になつた。二流の人間の方がより人生を享受するのだといふやうな事を朝日新聞に連載中の『言葉と人間』に書いてゐたが、他人の身の僕は、一流の小林秀雄に魅かれる。」

 

しかし、小林秀雄も、ある意味では専門化を廃した人であるし、現代の社会において専門化が生む弊害は大きい。ベルクソンが、1882年にアンジェのリセでの学生の表彰式で、専門性について話をしてゐる(Melanges, p.257-264)が、そこで、手の仕事と精神の仕事では、専門化の意味が異なり、手仕事では分業と専門化によつて作業の効率が上がるが、知性の分野では、全ての能力を伸ばさないと、一つの能力を完璧なものまで高めることはできない、動物の固定化された本能と人間の多彩な知性との差も、そこにあるのだ、と言つてゐる。

 

物は、効率的に生産して、これを貯め込み、他人が使ふこともできるが、知恵は、一人ひとりが、生まれるところから始めて、自分の力で身につけるしか、他に手に入れる方法はない。蓄積される物が増大するに従つて、両者の差は広がるばかりだ。その中で、如何に正気を保つか。加藤周一氏の自らに課した問題は、そこにあつたのかも知れない。ご冥福をお祈りする。