「仏文の研究室には、秀才が集まっているんですよ」ともいっていた、「渡辺とか、森とか、三宅とかね、これはみんな仏文はじまって以来の秀才だ。ぼくはわからないことは、渡辺に訊きます。何でも知らないことはないね。小林(秀雄)もよくできたが・・・・・これは渡辺とちがって、教室にちっとも出て来ない。家で本ばかり読んでいる。ぼくの家の本を持っていって、煙草の灰で汚してかえしてくるんだ。実によく勉強したな。試験をすると、講義に出ていないから、できませんね、それで通して下さいというのだから、ひどいものだ。卒業論文だけは書いて来て、とにかくこれを見て下さい。見ると、驚いたね。これが素晴しい。最高点だ。渡辺・小林・森・・・・・森君はデカルトとかパスカルとかいっていてね、これがまた凄い秀才ですよ、仏文にもこういう人が出て来なくてはいけない、むずかしくて何だかよくわからないけどね・・・・・」
しかし私がいちばん強い影響を受けたのは、おそらく、戦争中の日本国に天から降ってきたような渡辺一夫助教授からであったにちがいない。渡辺先生は、軍国主義的な周囲に反発して、遠いフランスに精神的な逃避の場をもとめていたのではない。そうするためには、おそらくフランスの文化をあまりによく知りすぎていたし、また日本の社会にあまりに深く係っていた。日本の社会の、そのみにくさの一切のさらけ出された中で、生きながら、同時にそのことの意味を、より大きな世界と歴史のなかで、見定めようとしていたのであり、自分自身と周囲を、内側からと同時に外側から、「天狼星の高みから」さえも、眺めようとしていたのであろう。それはほとんど幕末の先覚者たちに似ていた。
いま言ったように、私が速読法に熱中し、一日一冊主義を自分に課していたころ、小林秀雄さんが私達の高等学校へ講演にきたことがあります。私は、一日一冊主義を守るためには、すべての外国語の本を翻訳で読むよりほかないと考えていました。ところが小林さんは、外国語の本を読むのにも、一日一冊を片づけられる程度のはやさがなければ、そもそも外国語の知識というものは使い道にならない、という演説をしました。どうすればそういうはやさで外国語の本を読むことができるか。教室で読むように、ていねいな読み方をしていたのでは、らちがあかないでしょう。翻訳のある小説を買ってきて、原書を右手におき、翻訳書を左手において、左の翻訳書を一ページ読んでから、右の原書を一ページ読む、字引は使わない。わからないところはとばす--そういうやり方で一日一冊を読んで一年に及べば、おのずから翻訳なしに外国語の本を一日一冊片づける習慣がつく。おのずからその要領をつかむこともできるようになるだろうというのです。私はその方法を実行してみました。これが外国語を学ぶのに、もっともよい方法だというのではけっしてありません。背に腹はかえられなかったのです。
私は血液学の専門家から文学の専門家になったのではない。専門の領域を変えたのではなく、専門化を廃したのである。そしてひそかに非専門化の専門家になろうと志していた。