プラトンの『国家』

アラン(1868-1951)が、1910年4月4日付のプロポで、プラトンの『国家』について書いてゐる。("Propos I" Biblioteque de Pleiade, p.72-73)

 

プラトンは自己抑制について、素晴らしいことを言ひ、内面の統制は貴族的でなければならないことを示してゐる。つまり、優れたものが劣るものを統治するのだ。「優れたもの」で彼がさしたのは、私達の一人ひとりが内に持つ、知り、理解する力である。私達の内にある民衆、それは怒りであり、欲望であり、欲求だ。私はプラトンの『国家』を読んで欲しいと思ふ。それについておしやべりをするため、つまり、普通に言はれてゐるところを再確認するためではなく、自らを統治する術を学び、自らの内に正義を打ち立てるために。

 彼の主な考へは、かういふものだ。人が自らをうまく統治できれば、さうしようと考へなくても、他人のためにも善き人、役に立つ人になる。これは全ての倫理の理念だ。それ以外は、野蛮人の取締りに過ぎない。諸君が恐怖といふ手段だけで、人々が争ひを避け互ひに助け合ふやうにすれば、確かに国の中にある種の秩序を築いたことになる。しかし、一人ひとりの内側は、単なる無政府状態だ。暴君に他の暴君が取つて代はる。恐怖が物欲しさを牢に入れてゐる。内側ではあらゆる悪が泡立つてゐる。外側の秩序は不安定だ。暴動、戦争、地震が来ると、牢から囚人達が吐き出されるやうに、私達の内でも牢が開かれ、怪物のやうな欲望が街を占領する。

 だから、私は、計算や用心深さに基礎を置く倫理の教へは、凡庸だと判断してゐる。それ以上は言はないが。愛されたいと思へば、優しくしろ。お返しをして貰へるやうに、同胞を愛せ。子供に尊敬されたかつたら、親を敬へ。これは街頭警備に過ぎない。誰もが常に良い機会を、不正を犯しても罰せられない機会を待つてゐる。

 私は、若いライオンの仔らが、倫理の教科書や教理問答集、全ての慣習や格子で爪を研ぎ始めたら、すぐに、別のやり方で語るだらう。彼らに、かう言ふだらう。何も恐れるな。自分が望むところを為せ。金の鎖にせよ、花で飾られた鎖にせよ、どのやうな束縛も受け入れるな。ただ、君たちは、自分自身の王になりたまへ。位を譲るな。欲望を、怒りを、そして恐れを支配する者たれ。羊飼ひが犬を呼び戻すやうに、怒りを呼び戻す訓練をせよ。諸君の欲望に君臨する王たれ。怖ければ、諸君を恐れさせるものに静かに歩み寄れ。諸君が怠惰なら、自らに任務を課せ。無気力なら、体を鍛へよ。我慢が足りないなら、縺れた糸の球を自分に与へよ。煮込みが焦げたら、大いなる食欲で食べるといふ王の贅沢を持て。悲しみに襲はれたら、自分に喜びを布告せよ。眠られず、草の上の鯉のやうに寝返りを打つてゐるなら、動かずにゐて、命令により眠る訓練をしたまへ。さうすれば、諸君は、自分の王になつてゐるのだから、王のやうに振る舞ひたまへ。そして、自らが良いと思ふことを為したまへ。

 

修身斉家治国平天下と同じ考へ方だと言へるだらう。

 

小林秀雄(1902-1983)が、昭和34年に「プラトンの「国家」」といふ題の文章を書いてゐる。その一部を引用してみよう。

 

「國家」或は「共和國」とも言はれてゐるこの「對話篇」には「正義について」といふ副題がついてゐるが、正義といふ光は垣間見られてゐるだけで、徹底的に論じられてゐるのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本當のところ何であるかに關して、話相手は、はつきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言はれてゐるものも、恐ろしい、無法な欲望を内に隱し持つてゐる、といふ事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を觀察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、さういふ話をくり返すだけだ。
 さういふ人間が集つて集團となれば、それは一匹の巨大な獸になる。みんな寄つてたかつて、これを飼ひならさうとするが、獸はちと巨き過ぎて、その望むところを悉(ことごと)く知る事は不可能であり、何處を撫でれば喜ぶか、何處に觸れば怒りだすか、そんな事をやつてみるに過ぎないのだが、手間をかけてやつてゐるうちには、樣々な意見が學説が出來上り、それを知識と言つてゐるが、知識の尺度はこの動物が握つてゐるのは間違ひない事であるから、善惡も正不正も、この巨獸の力に奉仕し、屈從する程度によつて定まる他はない。何が古風な比喩であらうか。(『小林秀雄全集』第12巻50頁)

 

ソクラテスの話相手は、子供ではなかつた。經驗や知識を積んだ政治家であり、實業家であり軍人であり、等々であつた。彼は、彼等の意見や考へが、彼等の氣質に密着し、職業の鑄型で鑄られ、社會の制度にぴつたりと照應し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見拔いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。たゞ、彼は、彼等は考へてゐる人間ではない、と思つてゐるだけだ。彼等自身、さう思ひたくないから、決してさう思ひはしないが、實は、彼等は外部から強制されて考へさせられてゐるだけだ。巨獸の力の内に自己を失つてゐる人達だ。自己を失つた人間ほど強いものはない。では、さう考へるソクラテスの自己とは何か。
 プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考へさせられるといふ事とは、どうあつても戰ふといふ精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、眞の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などといふ感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は獨特だが、文學的浪漫主義とは何んの關係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とでも、驚くほど率直に、心を開いて語り合ふ。すると無智だと思つてゐた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思つてゐたものは、自分を疑ひ出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。さういふ不安になつた連中の一人が、ソクラテスに言ふ。
「君は、疑ひで人の心をしびれさせる電氣鰻に似てゐる」
 ソクラテスは答へる。
「いかにもさうだ、併し、電氣鰻は、自分で自分をしびれさせるから、人をしびれさせる事が出來る、私が、人の心に疑ひを起させるのは、私の心が樣々な疑ひで一杯だからだ」と。(同52-53頁)

 

使はれてゐる言葉こそ違ふものの、二人の読書の達人が眼を着けてゐるのは、同じ点だと言へるだらう。