小泉信三『海軍主計大尉小泉信吉』

小泉信三(1888-1966)の『海軍主計大尉小泉信吉』を読む。戦争で亡くした一人息子を悼んで書かれたもので、当初は、三百部限定の私家版で出されたもののやうである。末尾に、昭和十八年春-同十九年四月二日とあり、戦死の報が届いたのは、昭和十七年十二月四日、海軍の合同葬儀が翌年二月二十六日、小泉家の告別式が三月一日だから、これらの儀式が終つてすぐに、あるいは、それと併行して書き始められたものである。

 

末尾に、これを書いた著者の思ひが綴られてゐる。
 

信吉は文筆が好きであった。若し順当に私が先きに死んだなら、彼れは必ず私の為めに何かを書いたであろう。それが反対になった。然るにこの一年余り、私は職務の余暇が乏しかったので、朝夙(はや)く起きて書いたり、夜半に書いたりしたこともあるが、筆の運びは思うに任せず、出来栄も意の如くにならなかった。しかし信吉は凡てそれをも恕(じょ)するであろう。彼れの生前、私はろくに親らしいことがしてやれなかった。この一篇の文が、彼れに対する私の小さな贈り物である。

 

かなりの部分が、軍艦に乗り組んでゐる信吉から送られて来た手紙の引用であり、海軍の生活の一部が窺へる。当然のことだが、軍艦暮らしでも食事が大きな問題なのである。信吉が艦の台所を預かる「衣糧主任」であり、また、軍の作戦を話題にする事は避けるので、食べ物の話が多くなるのは当然なのだが。また、読書家の信吉が、しきりに本を送るよう頼んでゐるのにも興味を引かれた。

 

肉親を悼み、弔意を表すのに、歌が使はれてゐることは、現代との大きな違ひだらう。上の妹の加代子さんは、次のやうな歌を詠んでゐる。

我兄よまこと南の海の底に 水漬くかばねとなり給ひにし

 

弔問に訪れた中島大佐が霊前に供へたいと取り出した自筆の短冊には、この歌だ。

一筋にいむかふ道を益良夫の ゆきてかへらぬなにかなげかむ

 

信三氏の妻の兄、本人の伯父である阿部泰二氏の挽歌。

荒御魂(あらみたま)国護るらめ和魂(にぎたま)は ちゝはゝの許に帰り来まさね

 

歌が、この時代には、人々の心を慰める力を持つて、生活の中に生きてゐたことが分かる。