共和国としての私

アラン(1868-1951)が、1910年12月4日付のプロポで、こんなことを書いてゐる。

 

何かの事故で少しばかり皮や肉を取られると、この私のかけらは、すぐに死んでしまふが、だからと言つて、このかけらが、分けることのできない生命の一部なのだと考へてはいけない。この小片は、動物たちの群れなのだ。それが死ぬのは、生存に適した液体の環境から投げ出されるからで、水から出された魚と全く同じである。また、この小片を、それが浸されてゐた血液に似た環境に保てば、生きつづける。これは、最近、直接実験で証明されたが、実は、すでに知られてゐたことだ。

誰もが、この独立した動物たちの生活の影響を、自らの裡に感じてゐる。何も飲み込むものがないのに、飲み込まうとして見たまへ。意気込みは、骨折り損に終はるだらう。しかし、咀嚼したパンの一切れや、少量の唾液でも、口の奥の方の然るべき場所に送れば、飲み込まずにはゐられないだらう。諸君の口の奥には、まさに一匹の動物が獲物を待つてをり、それに触れれば直ぐに掴まへるのだ。事は、諸君なしでも為されることに注目したまへ。諸君なしで、胃は食物を掻き混ぜ、腸はこれを廻らせる。諸君なしで、心臓は、自ら送り出した血液のショックで拍動する。諸君なしで、暗がりでは瞳が広がり、強い光で縮む。諸君なしで、何か物が眼に迫れば、瞼が閉ぢる。諸君の脚は、歩くことを知つてゐる。さらに、諸君の許しを得ずに震へる。

これら全てを考へると、我々は自然に、自分は動物たちの群れであり、牡蠣やイソギンチャクが岩にくつついてゐるやうに、骨格に付いてゐるのだ、といふ考へを持つだらう。そこから、我々を突然押し流す怒りや恐れが来る。これは、我々の海の怪獣たちの一群が動き回り、目を覚まし、網の中の魚のやうに、自分の最初の動きによつて興奮してゐるのだ。海の怪獣たちと呼ぶのは、それが皆、血に浸されてゐて、血は、液体として、海水に似てゐるからだ。

生理学者たちが、長い間、この自然な考へから遠ざかつてゐたのは、彼等が、一般的な錯覚により、これらの部分を動かす何らかの原則を探してゐたからだ。それは意志ではない。これは言葉に過ぎないのだから。むしろ、幾千の経路から、ある種の生きた流動体を末端まで送り出すことができる、一つの臓器である。そこから、脳が感じ、意欲を持ち、考へる、といふ見方が出てくる。しかし、これはスコラ哲学を固めたものでしかない。言ふことができるのは、脳が神経の中心であり、これを仲立ちとして海の怪獣たちが互ひに刺激し合ふといふことだけだ。それは、直接、体を擦り合ふよりも、ずつと繊細なやり方なので、一匹が跳ね上がるのを他の全ての跳ね上がりが抑へる。脳が命令するのだ、と言つてはいけない。単に、脳によつて部分が全体に従ふといふことなのだ。脳が働きかけるのではない。全体が働きかけるのだ。拳を引きとめるのは、脳ではない。私の他の全ての臓器が拳を引きとめるのだ。私は、見かけは君主国だが、実は共和国なのだ。

 

かうした議論から、アランは、勝手に動き回る動物たちを抑へることが、礼儀といふものだ、などと言つたりするのだが、脳が感じるのではなく、それを仲立ちにして怪獣たちが刺激し合ふのだ、といふ考へ方は、心の在り処を考へるのにも、役に立つものではないだらうか。脳だけがあれば、人間は物を感じることができる、といふ考へは、科学小説などに、よく見られる。しかし、身体の他の部分を持たない脳とは、何だらう。空想映画などでも、少なくとも、培養液に入つた脳には、多数の線が結ばれてゐて、外部のコンピュータと電気信号をやりとりすることになつてゐる。だが、この脳が動かしてゐるのは、どの身体なのか。動かす身体を持たない脳とは、すでに脳の名に値しないもののやうに思はれる。