遺伝子で何が決まるか

Nature 誌2008年11月20日号に、"Beneath the surface" といふ記事が出てゐる。日本語の抄訳版から、興味深い点を引用しよう。

 

多くの生物学者は、意識的かどうかはさておき、生体システムを最適状態に調整されたものとして考える傾向がある。ある種の生物がむずかしい問題を複雑な方法で解決している場合には、近縁種でも遺伝子は同じ方法でその過程を調整していると推測されることが多い。こうした考え方は、多くの遺伝子とそれがコードするタンパク質が、何億年にもわたる進化の歴史の中で驚くほどよく保存されているという発見により強化されてきた。
 けれども最近、遺伝子の多くが保存されていても、その発現を制御する調節的なつながりが保存されているとは限らないことが、徐々に明らかになってきた。近縁種は、まったく異なる調整ネットワークで遺伝子をつなぎながら、一見、変わらぬ形態を維持していることがあるのだ。

 

このように、シュペーマン形成体にせよ Bicoid 遺伝子にせよ、当てはまる規則は同じであるようだ。すなわち、同一の結果を得るために、それに寄与する因子を組み合わせる方法は多数存在するのである。「個々の遺伝子のレベルで考えていてはまったく理解できないことです」と Lemaire はいう。生物の機能を決める情報は、より高く、より抽象的なレベル、すなわち、遺伝子やタンパク質やそのほかの因子が、一連の非線形的なフィードバックループの中で相互作用する総体にあるのだ。その結果生じるボディープランや形質は、複雑系の研究者が「創発特性」とよぶものに相当し、部分の寄せ集めを超えるものである。

 

少し前まで、遺伝子の配列が解明されれば、生物の謎は解ける、といふ考へ方が強かつた。遺伝子型と発現型とは、一対一で対応すると考へられてゐた。しかし、同じ遺伝子型でも、選択的スプライシング等により、様々なの発現型が現れることが分かつてきた。環境により発現型が異なることは経験的に知られてゐたが、それが遺伝子レベルの機構としても確かめられつつあるのだ。上記の記事は、逆に、発現型が同じでも、遺伝子レベルでは多様性がある事を示す。遺伝子型と発現型の一対一対応は、完全に崩れたと言つて良い。

 

ベルクソン(1859-1941)は『創造的進化』の、ダーウィンの進化論を批判してゐる部分("Évolution Créatrice", p.64-)で、「眼のやうな複雑な器官が偶然の積み重ねでできることは考へ難く、大きな変化は、むしろ既存の機能を損なふ恐れが大きい。小さな変化は、そこから得られる改善も殆ど無いので、なぜ競争の中で生き残れるかが分からない。」といふ趣旨の発言をしてゐるが、上記の研究が明らかにしてゐるやうに、外に現れる形を変へずに、保存される遺伝子の型を多様化できるのであれば、進化による新しい形質の出現の可能性は、飛躍的に高まると言つて良いだらう。ベルクソンがこの本を書いた1907年は、メンデルの論文が再発見されて間もない頃で、DNAが未発見なのは勿論のこと、遺伝子といふ言葉さへ出来てゐなかつた時代なので、かうした生物の複雑さ、柔軟さに考へが及ばなかつたのは、無理もないことではあるが。

 

他方で、(大事なのは、こちらの方だが)、生物は、部分の寄せ集めを超えるものだ、といふ見方は、ベルクソンの基本的な直観を支持するものだと言へよう。生命は、要素を組み合はせ付け加へるのではなく、一つの細胞が分割し、多様化することで成り立つ(p.90)、人間は生物組織を作られた物として見ることが避けられず、物作りは、周辺から中心へと進むが、生命組織は中心から周辺へと進む(p.93)、といつた着眼が、その例だ。そこから、「心理学的な原因」や「生命の発生の元にある推進力」まで行くことには賛成できない人が多いだらうし、それは理解できることだが、現在の科学でも、生命の仕組みを十分に説明できてゐない以上、判断は保留すべきではないだらうか。