言葉の魔力

アラン(1868-1951)が言葉の魔力について書いたプロポを読んでみよう。(1913年8月19日)
 

呪(まじな)ひは、言葉から来る。言葉には、仕草や顔の動きが伴ふのが常で、言葉の表現する力を増す。呪ひは表現することから来るのだ、とも言へよう。物について述べても、それが物を正しく言ひ表してゐなければ、何の意味もない。しかし、人に対して、人について述べると、言つたとほりのことが起きる。いつまでも誤りであり続けはしない。ある人が、もう一人に、「君は僕を憎んでゐる。君が僕を憎んでゐることは分かつてゐる。」と言へば、そのことは、未だ本当ではなかつたとしても、直にさうなる。ある人を、馬鹿者だと信じ、さう言へば、その人は馬鹿者たらざるを得なくなる。嘲(あざけ)りには、嘲られた者を愚か者に変へる恐ろしいものがある。愚かになるのを恐れることで、実際に愚か者になるのだ。人は、表現することで、恐怖を与へる。男でも女でも、表現することで、命令の仕方、褒め方、叱り方で、家の中の独裁者になつてゐる者がある。諸君は、或る種の顔に見て取れる蔑(さげす)みで、時により、諸君の性格に応じて、恥ぢ入つたり、怒つたりすることがある。

狂人に対して一番してはならない過ちは、彼を狂人だと思つてゐることを見せることであるのは、よく知られてゐる。恐らく、精神的な病の大半は、見てゐる者の意見によつて悪化する。と言ふのは、狂人に一番いけないのは、自分が狂人だと思ふこと、つまり、一人ぼつちで、余所者で、「気が違つて」をり、他の人達とは異なつてゐる、と考へることだからだ。人は彼を押しやり、彼は身を引く。

これは、普通に見られる感情の働きが、最も著しい場合に過ぎない。人は、愛されてゐると思ふから、愛するやうになる。知性の印(しるし)を見ると、知的になる。実際に、魔法の循環が、良いものと悪いものとあつて、人々を閉じ込めて放さない。

キプリングは、その小説の中で、パンチ・ババといふあだ名の甘やかされた子供が、両親と乳母の手から意地悪な伯母の許に移り、罵りの言葉を受けて、実際に悪い子供になつて行くのを語つてゐる。復讐心は、装はれた感情の一つで、相手の話によつて心の中に育つ。誓ひが誓ひを呼び起こす。

娘に向つて、君は醜いと繰り返へせば、醜くなるだらう。と言ふのは、悲しみは醜く、内気は不器用だからだ。そして、皺は消えない。人間といふ植物は、好意的な意見の中でないと、うまく育たない。だから、母親の愛情は常に良いものだと言ふべきだ。信用を与へるので、美しさや知性を助長し、それ以上に善良さを育てる。母の愛は、柔らかな若芽を解きほぐし、然るべく導く。意地悪な眼は、霜のやうに萎(しを)れさせる。

戦争は演説の結果だ。「イリアス」の中では、そして他のどこでも、罵(ののし)りが最初に投じられる弾だ。好戦的な演説が不適切な行動であるのは、このためだ。演説の、脅しの、挑発の、この恐ろしい働きは、人民が王達よりも分別を持つてゐなければ、フランスとドイツの間で強まるだらう。私は、呪(のろ)ひや予言を恐れる。古代の魔術師たちが間違つてゐたのは、語ることで物にも働きかけてゐると考へてゐた、といふ点だけだ。良い魔法と友情の奇跡について学ぶのが、我々の役目だ。

 

学校でも職場でも、苛(いぢ)めが、社会的な問題になつてゐる。我々が子供のころには、弱い者苛めはするな、と教へられたものだが、最近では、余り聞かなくなつた。この教へは、言葉の持つ魔力といふものを知つた人の教へだらう。言ふ側には何気ない言葉でも、言はれる方は、傷ついてゐる。和顔愛語が大切な所以だ。

 

また、人間が社会の中で生きてゐる、つまり助け合つて生きてゐる、といふことを知つた人の教へだらう。分業や市場といふ仕組みで、この事実が見えにくくなつてゐるとしても、世の中全体を考へ、他人を思ひやる心が失はれれば、社会は、早晩、不安定になるだらう。今の「エリート」達は、競争に勝ち残ることに忙しく、かうした視点を失つて仕舞つたかのやうだ。「情けは人のためならず」なのだが。

 

母親の愛情が、無条件なものでなくなつてゐるのも、今日の日本の問題だと思はれる。父親は、世の中の代弁者として、条件付きの愛情を示し、母親は無条件に愛するといふ役割分担があつた筈だが、父親不在で、母親が両方の役目を負つたために、かうした事態が生じたのではないだらうか。かはいさうなのは、子供たちだ。

 

なほ、アランが引用してゐるキプリングの話は、岩波文庫キプリング短篇集』に収められてゐる「めえー、めえー、黒い羊さん」である。