河上徹太郎『吉田松陰 武と儒による人間像』

 河上徹太郎吉田松陰 武と儒による人間像』に眼を通す。幾つか、興味深い部分を引いて置かう。講談社文芸文庫から引用するので、「現代仮名づかい」。
 これらの明治大正の文化的エリート(*)の著作を見ていると、わが文学の本質的な在り方が旧幕以来のそれと同じものがあるのを感じるのである。即ち士大夫の人生論は主として儒教的教養がこれを受け持ち、文学プロパーの世界は稗史小説の類いで、西鶴近松に風俗小説的表現に見るべきものがあるも、その末端は情緒官能のたわむれに過ぎないという在り方である。私はここで価値の上下を論じているのではない。人生観の広さ、つまり全人性の点で、昔も今も文は儒に及ばないという実情を指摘したいのである。(11頁)
(*)岡倉天心内村鑑三河上肇を指す。
 儒教的教養が抜けて仕舞つた後の今日の日本で、人生論を受け持つてゐるのは何か、これこそが大きな問題である。
 ということは同時に、松陰は去る戦時中日本主義の本尊のようにいわれたが、彼の国学的教養はむしろ乏しいのである。彼は嘉永四年亡命〔藩邸を脱走すること〕して東北に遊び、水戸に滞在して諸名士とつき合って啓発されるのだが、その時、も少し国史国学を学ぶべきだと戒められている。彼の教養は朱子学を骨としている。しかも素行は程朱の学から出発して三十過ぎてそれに疑いを懐き、古義学的傾向に移り、そのため赤穂流謫などの目に遭うのだが、この転向を松陰がどう受け止めたか、とにかく松陰にはそんな形而上学的な訓詁は問題にならないらしい。(15~16頁)
 思想家本人の考へと、世の中がそれを担いで廻るやり方との間に、乖離があるのは、いつもの事ではあるが。

素行のこの考え方を推し進めれば、例えば次のような心掛けが必要になる。彼は農工商がそれぞれの職分があるのに対し、士は「耕サズ造ラズ沽(ウ)ラズ」して生きているが、その天職は何かというと、
凡ソ士ノ職ト云フハ、其身ヲ覰(ウカガ)フニ、主人ヲ得テ奉公ノ忠ヲ尽シ、朋輩ニ交リテ信ヲ厚クシ、身ノ独リヲ慎ンデ義ヲ専ラニスルニアリ。而シテ己レガ身ニ父子兄弟夫婦ノ已ムヲ得ザル交接アリ。是レ亦天下万民各々ナクンバ有ルベカラズノ人倫ナリトイヘドモ、農工商ハ其ノ職業ニ暇アラザルヲ以テ、常住相従ツテ其ノ道ヲ尽スヲ得ズ。士ハ農工商ノ業ヲサシ置イテ此ノ道ヲ専ラツトメ、三民ノ間苟モ人倫ヲミダラン輩ヲバ速カニ罰シテ、以テ天下ニ人倫ノ正シキヲ待ツ。是レ士ニ文武ノ徳知備ラズンバアルベカラズ。
即ち士は、生産はしないけれども、人倫道徳の亀鑑であり、その監督者であるというのだ。そんな専門家(プロ)がなり立つものかどうか、後世道徳的にも社会的にも批判の余地はあり得るが、それが当時の武士の信念であり、又武士階級が幕府の新しい社会体制の枠に嵌めこまれて自己を正当化するための理論であった。そして素行にあっても、四民の別は階級というよりも職分の別であるが如き説明の仕方がしてある。この考えは、後代の忠実な弟子松陰にあっては謙遜かつ純潔に守られてゆくのである。(17~18頁)

 勿論現実問題として、武士が必ず町人よりも知も徳も勝れ、その上に立つ資格があるときまっている筈はない。だからこれは理想論で、素行も松陰も、自覚として、道徳律として武士たちを戒めていることはいうまでもない。然しまた、武士が特権を以て理不尽に町人を圧迫し、そこに封建制度の悪があるように考えるのが世の常識であるが、士が三民の怨府であったと一概にきめつけるのは、これも事実上正しいとはいえない。武士の徳はしばしば町人の理想であった。そして武士の情操も亦町人の憧れであった。われわれはそれを今でも歌舞伎の舞台で現実に見る。菅原の「寺子屋」にある武士の義理人情の残虐さに、町方の観衆は身につまされた。のみならず、武士の妻や娘が、女らしさ、色っぽさの典型として描かれているのに接する。いい例は「忠臣蔵」だ。武士が憎ければ、何故あの義士の苦節に涙を流し、観世の色気やおかるのあどけない忍従にうっとりするのか。(19~20頁)
 この辺りの記述、近代の日本においても一つの理想像であつた、武士といふものの姿を考へる際に、非常に興味深い。

さて、革命というものをかなり大胆に肯定する孟子を、--といっても今日われわれが考える革命とは大分違ったものだが、その点以下自ずと説明していくつもりだ、--忠を絶対とする勤王家の松陰が、殆ど矛盾を感ぜずに認めている、というよりも積極的に信服していることをどう解釈するか?これは『講孟余話』の中心的問題であり、のみならず松陰の思想の根本をなすものであるが、要するにそこに矛盾があると考えるのは政治的イデオロギーに囚われた考え方から来るのであって、二人の心情がどんなに近いかを思えばすぐ分ることである。つまり孟子性善説、仁と義を絶対とする人性論、至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり、という素朴楽天的ともいえる信念、これらは血液的に松陰に身近な人生観である。(94頁)

孟子の革命観の中心は、左の梁恵王下篇第八章にズバリと明言されている。夏の桀王は暴君なので殷の湯王に追放され、同じように殷の紂王は周の武王に討伐された。これがいわゆる殷周革命だが、この事実を斉の宜王がそんなことがあったのかと孟子に聞いたら、孟子は伝にそれがあると答えた。そこで王が「臣にして君を弑(あや)めることが許されるのか、」と問うと、孟子は答える。
仁ヲ賊(ソコナ)フ者ハコレヲ賊トイヒ、義を賊(ソコナ)フ者ハコレヲ残トイヒ、残賊ノ人ハコレヲ一夫トイフ。一夫ノ紂ヲ誅(コラシ)メタリトハ聞クモ、未ダ君ヲ弑(アヤ)メタリトハ聞カズ。
 つまり桀や紂は仁義の道が守れないのだから、天子の資格はなく、いきなり一介の匹夫に堕しめられる。そして一夫を討ったという話は聞いているが、君をあやめたとは聞いていない、といっているのである。(95頁)

 孟子もなかなか烈しい思想家のやうだ。孔子ほどには、関心が無かつたが、ちよつと覘いて見ようかな、といふ気になつた。

 

 他にもいろいろあるが、省略。