宗教の効用

アラン(1868-1951)は、既存の宗教を信じてはゐなかつたが、その効用は認めてゐた。さうした考へが現れてゐる文章の一例。1914年1月31日のプロポ。
これは、白髪の友達から聞いた話で、彼女は田舎に引つ込んで、汚れた子供たちに教理問答書を習はせてゐた。この女性は、私以上に信心深かつたわけではない、と言つて置くのが良からう。だから、教理問答書は、一般的な倫理を教へるための、そして心の汚れを落とすための、手掛かりに過ぎないのだ。どんな木でも矢として使ひ、一つの道具でどんな仕事もこなす、これが田舎の決まりだ。さて、話は、以下のとほりである。

一時期、この地域の洞窟「クルット」に居ついてゐた、流浪の民の一人の子供が、ある日、呼び鈴を鳴らした。「君、何の用なの。」「お祈りと教理問答書を教へて欲しいんだ。」その日に当たつてゐたので、彼は席に着いた。十字を切ることを教へる。「これは何の役に立つの。」説明。「これは、平等、正義、愛、侮辱の赦しを教へたために十字架に架けられたキリストの印なのよ。十字を切るのは、かうした事を思ひ出すためなの。頭に来たり、仕返しをしようとしたり、憎んだり、軽蔑したりして、自分を見失ひさうな時にね。さうすると、十字架に込められた正義の魂が、助けに来てくれるやうなものね。」要するに、自分ではすることのない人間が、十字を切ることについて言ひ得ることを、全て言つたのだ。

一週間が過ぎる。相変はらず、教理問答書を題材に、怒りについて話をする。子供の一人で、他人の弱みに素早く気付く子が、かう言ふ。「怒りつぽいのは、ミシェル(あの流浪者の子)だね。昨日、アンドレを、大きな石を持つて、「捕まへるぞ、家まで帰さないぞ」つて言ひながら、追ひかけてゐた。だけど(馬鹿にしながら)、急に立ち止まると、お祈りをして十字を切つて、石を捨てて、アンドレに、恐がるな、家に帰つてもいいぞ、つて言つたんだ。」

私は、一台の車の痕も見えない雪の原を横切つた後で、火で足を温めながら、この話を聞いてゐた。トルストイは、かうした調和を全て掴んでゐた。小さな流浪者は戻つて来なかつた。だから、話の続きはない。沈黙が来て、神々が過ぎ去る。

さわぐ心や、そのはつきりとした表れは、身体の動きに依るもので、怒りを解くためには、握りこぶしを緩めれば良いのだ、と知るためには、深い知識が必要だ。しかし、誰が、最初から、自分の考へよりも自分の手の方が支配しやすい、と思ふだらうか。しかし、さうなのだ。諸君の敵に対して、最初に、頭の中で正しくあらうとしてはいけない。先づ、歯を食ひしばるのを止め、手を開いて、膝を緩め、頭を垂れよ。生命体は、相手を絞め殺さうとする前に、自らを絞めるものなのだ。だから、プラトンが望んだやうに、先づ、自分自身に対して正しくあつて、自らの人間的な形を敬ふことが大切なのだ。かうして、先づ体操によつて、心は、自分のさわぎを静める。さうして初めて、考へは人間的な形を取り戻すのだ。しかし、効果は目に見えても、原因は隠されてゐるのが普通だ。そこから、時とともに古い、儀礼的な仕草が真実の魂を呼び起こすといふ信仰、それは天使のやうに外からやつて来るといふ信仰が出てくる。二千年も前から、世界の平和は、言葉にする事は非常に難しいが、聖職者の天使のやうな仕草、両手を合はせて離すといふ無防備な仕草で、表現されてきた。そして、本当に、奇跡が起こる。仕草が全てを変へる、といふのは、事実なのだから。この仕草について考へるべきだ。これが、真の平和への祈りなのだ。若し平和を考へたいのなら、先づ、武器を置きたまへ。
かういふ文章を読むと、いろいろな考へが浮かんで来る。
 
心はどこにあるか。心の基本的な働きが、自分自身と外界との情況を把握し、適切な行動を取るといふものであるとすれば、自分自身の状態によつて常に変化することは当然だらう。心を脳に閉じ込める考へ方は、誤りだ。少なくとも、その働きは、世界に広がつてゐるのだから。
 
躾(しつけ)の大切さ。何故、正しい姿勢が大切か。なぜ、健全な精神は健全な肉体に宿るのか。等々。

 

尤も、アランが1914年の1月にこの文章を書いたのは、戦争を避けたいといふ気持からだつたらう。しかし、戦争は起こる。アランは第一次大戦後も、平和主義の立場を堅持するが、かうした平和主義がヒトラーの台頭を許した、と説く歴史家もゐる。歴史の難しさだ。