『差別と日本人』

野中広務氏(1925-)、辛淑玉氏(1959-)の『差別と日本人』を読む。差別といふ難しい問題を扱つた本だが、よく売れてゐるらしい。何に関心を持つて、この本を手に取るのだらうか。読み終はつて、どのやうな感想を持つたのだらうか。Amazon.com のカスタマーレビューを見る限りでは、読後感が大きく分れてゐるやうだ。

個人的には、好感を持つて読んだ。二人の発言、特に、辛氏の発言が、バランスを欠いてゐると見えるのは、確かだらう。しかし、さうした発言が必要なほど、日本人の常識が歪んでゐる、といふ見方もできよう。少なくとも、かうした声に耳を傾けることができないやうでは、いけないのではないか。

本の帯の「部落とは、在日とは、なぜ差別は続くのか?」といふ問への答は、直接には書かれてゐない。どの社会にも差別はある、といふのは事実だらう。しかし、日本社会の場合には、基本原理として、人間は平等である、といふ考へ方が十分に根付いてゐないやうに思はれる。「一視同仁」といふやうな言葉は古くからあるし、阿弥陀如来衆生を救済するといつた信仰の伝統もあるが、基本的には、階級社会の発想が抜け切れてゐないのではないだらうか。あるいは、社会での階層分化が不可避な現象だとすれば、それに抗する原理としての平等や博愛が、軽んじられてゐると思ふ。

この本で批判されてゐる何人かの政治家が、何故、物事が見えなくなつてゐるのか。一つには、エリートとしての責任感が無く、そのため、他人への思ひやりが欠けてゐるからだらう。"Noblesse oblige." といふ言葉がある。上に立つ者には、責任があるといふことだ。これは、生まれながらの貴族に限らず、自由競争社会における成功者も同様だらう。

大多数の成功者が、成功のために、他の人達よりも多くの努力を払つた人であることは、確かだ。しかし、努力だけで成功するとは限らない。他人の協力は不可欠だし、幸運もあるだらう。何より、さうした成功を可能にするための安定した社会が、成功の前提条件だ。これを忘れなければ、社会への恩返しといふ気持は、自然に出て来ると思はれるのだが。