子供時代の意味

正月の番組で、宮崎駿養老孟司両氏の対談「子どもが生き生きするために」といふのを放送してゐた。アラン(1868-1951)が1921年5月5日(こどもの日!)に書いたプロポを思ひだす。アランが語つてゐるのは、自然の中の人間ではなく、歴史の中の人間であるが。
子供のためにはどんな本が良いかと聞かれたら、ホメロス、聖書、ラフォンテーヌの寓話が良いと答へる。何故かは、すぐに分るだらう。人の子供時代は、人類の揺籃期に似てゐる。我々の考へが、初めはどのやうな状態だつたかを知りたければ、最も古い本を読みたまへ。我々の知恵を大本まで辿れば、魔法使ひ、奇跡、神々が見つかるだらう。ここで、コントと共に、幼児期と成熟期との関係は、人類全体を見ないと分らない、と言ふべきだらう。この物理学者たちの世紀にあつて、人間一人では、自分の子供時代を、形の無い夢のやうに、すぐに忘れて仕舞ふだらう。そして、実験的な方法に身を委ねる。数学はその一部に過ぎないといふことに注意したまへ。知つたかぶりの男は、人類の歴史が、彼の背中で断ち切られてゐるかのやうだ。彼は頭だけで考へる。これは、生理学者たちによく見られる、考へるのは脳だ、といふ誤つた信念に対応してゐる。それくらゐなら、考へるとは、代数学に従つて、組合せ、展開することだ、と言つても同じだ。事実、この抽象的な戯れにより、ある種の悲しげな知つたかぶりが生れる。彼は、『イリアス』の神々の代りに、自分の肝臓や胃を崇(あが)めるのだ。学校の勉強はできるが教養のない人達を見てゐると、抽象的な思考の計算は誤ることがないが、心の方が狂つてゐることに気づく。ここでは、人類が二つに分かれてゐるのだ。自分の子供時代から切り離されてゐる。だから精神は速やかに成熟する。しかし、逆に、子供は決して成熟することがない。また、最初に出会つた奇跡の虜(とりこ)になる。交霊術者たちの仲間になると、そこから決して出てこない。同じ理由で、現代式の礼儀と呼んでも良い、権力の礼賛により、完全に支配される。明確な考へによつて育てられた人達に特有な、この狂信を説明せねばならない。私は、この人達は驚異といふものに慣れ親しんでゐないのだ、と言はう。一度も夢を見たことのない人が、突然、悪夢を見たかのやうに。だから、多く夢を見て、自分の夢について考へ、ありとあらゆる神々に少しづつ仕へるのは、良い事なのだ。

 多少のカトリック教は、害にはならない。それは一時の事であり、通り道である。ケプラーガリレイデカルトは、そこから科学や思想を作つた。プロテスタント教も良いものだ。一時の事、通り道である。カルヴィンは、そこから法律や共和国を作つた。ただ、通り道なので、これを忘れてはならない。この動きは美しいものだつた。いつでも、自らが信じるところを乗り越えることが必要だ。だが、信じてもゐないことが、どうして乗り越えられよう。それは雲の中で考へて、身体を軍隊式に動かすことだ。一度もカトリックでなかつたプロテスタントがどのやうなものかは、お分かりだらう。根つこを持たない思想、詩情のない真実だ。異教の神々は軽蔑すべきだ、と思はれるか。カトリックは、諸聖人、礼拝堂、奇跡説話に、その痕跡を留めてゐる。信仰が神学を支へたのであり、神学は科学を支へた。今日でも、身体全てが頭を支へてゐるのであり、誤りが真実へと導くのだ。同様の関係で、異教がキリスト教を支へてゐる。人々がしばしば気づいたやうに、ギリシャ神話は、多数の精霊や神々の間に打ち立てられた政治的秩序といふ形で、立派な理性の努力を示してゐる。しかし、初めに妖精や魔法使ひを呼び起こしておかなければ、異教を理解するのは不可能だらう。今日でも、自らの思想によつて生きようとする全ての人にとつて、詩情が思想を支へることが必要である。過(よぎ)る神々、樹の後ろの半獣神パン、最初の目覚め、ただ一度の目覚めだ。この廻り道によつて、多くを知つてはゐるが教養のない人間に欠けてゐるものが、はつきり見えてくる。彼には、子供時代や若さが足りないのだ。それを忘れて了ひ、悲しく老いたのだ。子供時代や若さがないので、考へが貧しいのだ。薬草を探しながら、一瞬の間、樹の周りを廻る魅力的なニンフも探すことが必要なのだ。ダーウィンは、植物を探しながら、そんな風に考へてゐた。想像力の手綱は、常に、締めなければならない。だが、先づ、跳ね出さないことには仕方がない。
オウム真理教の信徒に高学歴の人間が多かつたことを思ひ出す。