サリンジャーと庄司薫

サリンジャー(1919-2010)が亡くなつたといふニュースを聞いて、何度か読みかけては途中で放り出した"The Catcher in the Rye"を取りだして、今度は、丁寧に辞書を引きながら読んでみた。数行毎に辞書を引かなければならない状態なので、電子辞書といふ便利な道具がなければ、今回も断念してゐたかもしれない。あれだけ知らない言ひまはしが出てくると、辞書なしでは筋を追ふことも難しい。

読後感を一言で言へば、あまり感心しなかつた。金持ちの坊やがぐだぐだ言つてゐるだけの話ぢやないか、といふのが率直な感想である。こんな冷たい読者でも、この哀れな奴が最後にどうなるのか、気になつて最後まで読み通したので、文章力のある作品であるのは確かだらうが。

庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』が出たときに、"The Catcher"との類似が云々されたと聞いたことがあるので、読み比べてみたが、主人公の年恰好や、饒舌な文体、少女の果たす大きな役割といつた外見的なことを除けば、これほど違ふ本はあるまいといふくらゐ違つてゐる。

友人の小林が「ワイワイ言う新しい小説をちゃんと読んで」ゐる薫くんのことだから、サリンジャーもきつと読んでゐただらう。しかし、そこから何か思ひついたとすれば、"The Cather"を真似た小説を書くことではなく、これを否定する小説を書くことだつたに違ひない。さう思はれる程、二人の主人公は異なつてゐる。

Holden は怠け者だが、薫くんは勉強家だ。これは単に劣等生と優等生の違ひといふことではない。Holden には意志といふものが無いのだ。母親のことを気にかけてはゐるが、自分が何度も放校になつて心配をかけてゐるのに、改めようとしない。母親に心配をかけないため、といふことだけでも、勉強する十分な理由になると思ふのだが。

ついでに『さよなら怪傑黒頭巾』も読んだ。解説の奥野健男氏によれば、「ここで作者がいちばん描きたかったのは、薫クンのもうすこし先輩、それは作者の同輩、そしてすこし後輩の安保・全共闘世代の頽廃」なのださうだ。思ひ返せば、学生運動の敗退は、その後の日本の進路に大きな影響を与へたやうな気がする。

あれ以降、若者が悩むやうな、人生に関する根本的な問を持ち出すのは意味がないことだ、といふ考へ方が若者にまで定着して、ゴタゴタいふ暇があつたら勉強して良い大学に入らう、といふ風潮になつたのではないだらうか。勉強も、要するに出世の手段で、与へられたものを如何に早く飲み込むかといふ競争になつた。その結果、日本人の知性は大幅に低下し、それが「失はれた十年」(あるいは二十年)の遠因となつてゐる、そんな気がする。

日本がこのまま沈み続けるのではなく、新しく生まれ変はるためには、日本人が、少なくともそのリーダーと呼ばれる人達が、心を入れ替えて、しつかりと本当の勉強をして、知性を鍛へ直すことが不可欠ではないだらうか。