見ることと意識

見るとは、どういふことか。先づ、この問題を考へる必要がある。そのためには、人間の視覚と他のものの視覚を比べるのが、良い方法だらう。人間がものを見るのと、動物やロボットがものを見るのとでは、何が違ふのだらうか。

動物やロボットにものが見えてゐることは間違ひない。彼らは天敵を目にすれば逃げ、獲物を見つければ後を追ふ。では、彼らの見てゐる世界は我々の見てゐる世界と同じ姿をしてゐるのだらうか。この問への答は簡単ではない。人間同士でも、同じものを見てゐながら、そこに何を見て取るかには大きな違ひが有り得る。何事にも素人と目利きとがゐる。何を見るかは、見る主体によつて異なるのだ。

進化の過程を考へれば、見るといふ働きが単に見るためのものではなく、生物が外界に働きかけるためにあるのだと想定される。見るといふのは、単なる認識の手段ではなく、知覚と運動とは不可分なのだ、といふのは、ベルクソンが強調してゐた点だ。さうだとすれば、主体のものを見る力は、その外界に働きかける力によつて変はると考へるべきだらう。同じ絵が、画家と素人に違つて見えるのは、画家が絵を描く力を持つからではないか。

原始的な生物では、見ることと動くこととは不可分だが、進化した生物では、見ることが直ぐには動くことに結びつかない。かうした発達した生物においては、もともと一連の働きであつた知覚と運動を分けて考へることが可能となる。見るとは、生物が外界に働きかけるための一連の動きの、前段階だといふことになる。

見ることを他の感覚と区別してゐるのは、外界にあるものの形や動きを捉へるための機能だといふ点だ。地上や空で、昼間にものを見るには、光を使ふのが便利だ。しかし、光だけがものを見る手段ではない。夜行性の蝙蝠は、超音波を使つてものを「見る」。海中で暮らすイルカも、さうだ。

人間は二つの眼を持ち、それぞれの網膜には、世界が倒立して映つてゐる。それなのに、なぜ正立した一つの世界が見えるのか。視神経から脳に伝へられる信号が、脳の中で処理されてゐるからだ、と学者は言ふだらう。これは、恐らく正しい指摘だが、それだけでは何の解決にもならない。問題は、その処理が何の目的で行はれてゐるか、どのやうに行はれてゐるか、である。

人間は、正立した一つの像を見てゐるが、動物はどうか。ロボットはどうか。チンパンジーは、多分、人間と似たやうな世界を見てゐるであらう。犬や猫では、違ひも大きくなるが、蛇よりは人間に近いだらう。複眼の昆虫では、全く違つた世界が見えてゐるに相違ない。以上は、単なる推測だが、ある程度は実験的に確かめることもできるだらう。

それではロボットも、人間のやうに一つの世界の姿を見てゐるか。ロボットの目である二つのテレビカメラには確かに二つの倒立した世界の像が結ばれてゐるが、それが一つの正立像となつてゐるとは考へにくい。それは、人間や他の高等動物と、ロボットの身体の仕組みが異なるからだ。

ここで、人間の見てゐる世界の像が、どのやうなものかを分析して見るのは有用だ。我々は、普通、一つの確かな世界の像を見てゐると考へてゐるが、各種の実験で示されてゐるやうに、それは言はば「継ぎ接ぎだらけ」の世界なのだ。例へば、我々が細かいところまで見て取ることができるのは、視野の中心部分だけだ。それ以外の部分は、実はぼんやりとしか見えてはゐないのだが、視線を動かして視野の中心に置けばはつきりと見えるので、全てがいつでもはつきり見えてゐると感じてゐるに過ぎない。視野の周辺では、色も不明瞭になる。

従つて、人間の見てゐる世界は、謂はば構成されたものであり、様々な要素を現時点の像として見てゐるといふ意味では、記憶の働きを前提としたものであると言へる。かうした考へ方が正しいとすれば、見るといふ働きを、空間の中だけで捉へようとすることには無理がある。刻々と変化する脳の状態を、その時点だけに限つて分析しても、見るといふ働きを掴むことはできないだらう。