スピノザに倣つて

スピノザには、数は少いが、一流の愛読者がゐる。アランもさうした人達の一人である。スピノザに倣つて、彼が戦争について考へたプロポを読んでみよう。(1921年7月12日)

 

私は肩に小さな、鳥のやうに軽い手を感じた。スピノザの影が、私に囁(ささや)かうとしてゐたのだ。「気を付けたまへ」と小さな声は言つた。「君が戦はうとしてゐる心のさわぎを、君の中で真似ることのないように。この罠は古くからある。何世紀も、怒りに対して怒りが起こり、憐れみが暴力となり、愛情が憎しみに変はつてきた。いつでも軍隊には別の軍隊が取つて替はり、いつでも同じ手段がさまざまな目的を穢(けが)してきた。悲しくなることを決して見詰めてはならない。だから、人間の囚はれの状態や弱さについては、嫌々ながら、必要なだけ見るのだ。逆に、人々の徳や力については、その人々や君自身に喜びを与へる見物(みもの)だから、彼等や君自身が、これからは喜びの心からのみ活動するやうに、十二分に見詰めるのだ。」

 小さな声で、忘れられることが余りに多い。人の愚かな行ひは、彼のものではない。自惚れは、彼のものではない。意地悪さは、彼のものではない。かうした心を揺さぶる見かけは、実際には、外的な原因を前にした人間の弱さを示してゐるに過ぎない。諸君が自分の考へを支配することを止めれば、愚かさは、言葉の動きだけで、すぐに出てくる。悲しくならうとして、敵や迫害者を探すには及ばない。褒め言葉に高ぶり、責められて苛立つのに、意志は要らない。過ちは、全て、落ちるに任せることから来る。他の人間を殺させる人間には、全く何の意志もない。さうではなく、彼は屈してゐるのだ。逃げてゐるのだ。逃げながら、押しつぶすのだ。この戦争といふ災難では、何もかも外的だ。誰もが被つてゐるので、誰も為してはゐない。これは、我々のさわぐ心の拡大図だ。だから、人間の中にあるこの弱さを罵(ののし)り、叩(たた)かうとすると、私は何もないところに落ちる。これらの悪は、何物でもない。これらを打ち破ることはできない。人間の中にあるものは、全て、彼自身にとつて、また、他の人々にとつて、良いものである。意志は良い。勇気は良い。私は、これほど多くの悪の責めを負ふべき張本人を探すが、無駄だ。私が見つけるのは、自分の思想や義務を自分の外に探し求めた人間だけだ。「私には出来なかつた。」誰もが、背中に銃剣の切先を感じてゐたフリードリヒ王時代の兵隊のやうに、人を押し、人に押されてゐる。必要以上に、彼等にこの屈辱的な状況を思ひ出させるのは、止さう。私がここで犯す恐れのある最も大きな過ちは、彼等が自分達のしたことを誇りに思つてゐると考へることだ。誇りにしてゐるのではなく、むしろ悲しんで、苛立つて、頑(かたく)なになつてゐるのだ。

 戦争といふ話題では、かなり不思議な逆説に出会ふ。誰もが戦ひを望んだことを否定し、隣人を責めるといふことだ。私は、彼等が我々を欺かうとしてゐると考へない。むしろ、確信を持つだけの勇気がなく、彼等が考へてゐる以上に真実を述べてゐるのだ、と言はう。しかし、臆病の印は、幻想的な姿を見せる。私はいつでも、対立する民族が、銀行家、労働者、政治家、作家など、あらゆる種類の代表者によつて、彼等が戦争を望まず、将来も望むことはなく、戦ふのは強制され、強ひられた場合だけだ、といふ本当の考へを明かにするのを待つてゐる。しかし、誰に強ひられてゐるのか。ここで、この空虚と沈黙の中に、身体を持たぬ怪物が、皆が持つ恐怖によつてのみ力を得る怪物が現れる。さて、諸君は、恐怖を怖がらせようとするのか。立派な対処法だ。むしろ、一人ひとりの中の人間を目覚めさせ、喜びと希望に従つて考へるよう促さう。戦争を取上げて、誰もが持つエネルギーと統制力を見せる、これだけでも大きい。一度、しつかりと敵の勇気と自分の勇気を量り比べてみたまへ。この判断だけで、平和が宣言されるだらう。私は臆病者しか恐れない。だから、私が恐れるのは何物でもない。それを生み出すのは、私自身の怖れだけだ。私の哲學者に倣つて、かう言はう。喜びは平和の果実ではない、平和そのものだ、と。

 

アランが楽天的に見えるとすれば、彼が「悲観は気分により、楽観は意志による」と言つた人であることを思ひ出すべきだらう。