『日本文学史序説』第1章

加藤周一『日本文学史序説』第1章は「『万葉集』の時代」。最初に取り上げられるのは『十七条憲法』である。加藤氏の考へる文学史は、文芸作品を扱ふ狭義の文学史ではなく、日本人の言語表現の歴史なのだ。時代の政治、経済、社会的背景も示してゐて、日本の思想史、社会史ともなつてゐる。

 

古事記』、『日本書紀』の神話について、加藤氏の意見は明確である。

 

いわゆる『記』・『紀』の神話は、大衆のなかにそのまま生きていたほんとうの神話ではなくて、支配層の創作した神話文学である。
しかし支配層のなかにも大衆の心は生きていた。そのことは素材の大衆的起源についてばかりではなく、『記』・『紀』の語り口についてもいえると思う(中略)。語り口の特徴は、本すじからの脱線であり、部分的な挿話を全体の均衡から離れて詳しく語る傾向である。(ちくま学芸文庫版、上巻68~69頁)

 

さうした傾向の例として加藤氏が挙げるのは、仁徳天皇についての記述で、本来は「聖帝」の業績を讃へる文章の筈が、その部分は「甚だ精彩を欠く道徳的な物語」に終はつてをり、大后の嫉妬に悩んだ話の方が「描写は生き生きとして、日常的私生活の委曲を尽くしている」といふ指摘は面白い。

 

小林秀雄が『本居宣長』で詳しく書いた、日本の言葉を外国から借りた文字で書き表すための苦労については触れられてをらず、加藤氏の興味はあくまで「中身」にある。例へば、次のやうな指摘。

 

古事記』のもっとも美しく、もっとも感動的な部分は、ほとんどすべて恋の話である。殊に道行き。たとえばカルノミコとカルノオホイラツメの同母兄弟の悲恋。(中略)
死において完成する恋という考え方は、『古事記』から『曽根崎心中』まで、脈々と流れてきたようである。根本的に此岸的な世界構造のなかで、感情生活の極致にあらわれるものは、もっとも移り易い人間感情(恋)の永遠化であるほかはなかった。(73~74頁)

 

万葉集』についても興味深い指摘は多いが、ここでは次のものを挙げて置く。

 

枕詞の用法にも典型的なように、『万葉集』貴族上層の歌人たちは、彼らの日常生活の自然的環境に託してその感懐を述べた。感懐の中心は、「相聞」にみられるように主として恋であり、その次に、「挽歌」にみられるように悲哀であった。恋が花鳥風月に意味をあたえ、悲哀が山川草木を生かしたのであり、決してその逆ではなかった。たしかに「自然」に対する、そしてまた季節に対する執着と敏感さがあったということはできる。しかしその「自然」は大自然一般ではなく、極めて限られたものであり、しかも花鳥風月の特定の対象に集中しようとする傾向の著しいものであった。月の歌は多く、太陽や星の歌は極めて少ない。小舟の漕ぎ廻る海はあるが、遣唐船を浮かべた大海はない、巨大は、荒々しい「自然」ではなくて、小さな、優しい、身の周りの「自然」。(95頁)

万葉集』には、女流歌人が多い。おそらく叙情詩の作者にこれほど女の多かった時代は、古今東西に例が少ないだろう。しかも『万葉集』の閨秀は、傑作を生み出した。けだし日本の女流文学は、突然平安時代の女房文学にはじまったのではない。(96頁)

他方『万葉集』の歌人たちは、政治社会の問題にも、ほとんど全く触れていない。およそ同時代の唐詩とは、その意味で著しい対照をなす。一方の詩のなかには、詩人の政治への関心が鋭くあらわれ、他方の歌のなかには政治との係りが少しも見られない。(『万葉集』のなかの例外は、再び憶良である)。しかし奈良時代の貴族・役人の誰もが政治に無関心であったはずはないだろう。おそらくその関心が、唐の詩人の場合とはちがって、彼らの理想と相渉り、価値観の全体に係り、人格のあらゆる領域に触れ、したがって彼らの歌にあらわれるということがなかったのである。一方には政治の世界と権力闘争があり、他方には歌の世界と花鳥風月に託した恋があり、それは二つの別の事であって、決して交ることがなかった。(102頁)

 

いづれも卓見だと思はれるが、かうして結論といふべき部分だけを取り出して読むのは、文学史の読み方としては不適当だらう。加藤氏がこれらの結論に至る過程で読んだ個々の作品こそが、主役なのだから。その意味でも、加藤氏の書きぶりは立派なもので、人麿が妻を悼んだ長歌や、地方農民の世界を写した「東歌」などの引用を読むと、『万葉集』を一度、きちんと読みたいといふ気持になる。