Sensation と Perception

Nicholas Humphrey の"Seeing Red, A Study in Consciousness"を読む。我々が赤い色のものを見る時に感じるもの(それをこの本では sensation と呼んでゐる)が、どのやうにして出て来るのかを説明することを通じて、意識の問題について考へようとした本だ。扱はれてゐるのは、所謂クオリアの問題で、非常に興味深いものであり、それを専門用語を使はず、普通の言ひまはしで語つてゐる点や、blind-sight のやうな科学的な知見を踏まへて論じてゐる点が、好ましい。

 

結論には必ずしも同意しないが、いろいろと考へる切掛けを与へてくれる本だ。著者の基本的な主張は、sensation と perception は、進化上、別の起源を持つ機能であり、前者が後者の材料を提供するといふ直列の関係にはなく、それぞれ独立した働きだといふ点にある。

 

この考へを使ふと、blind-sight を巧く説明できる。blind-sight は「盲視」と訳される現象で、本人は見えてゐるといふ自覚はないのに、物の位置を当てたりすることができるなど、確かに見えてゐるといふものだ。著者の用語によれば、sensation はないのに、perception はあるのだ。一般に考へられてゐるやうに、sensation が perception の材料を提供するのだとすれば、この現象の説明は困難だが、著者のやうに両者が別の機能だと考へると理解できる。

 

著者は、また、sensory substitution といふ現象も、自らの説を支持するものだと考へてゐる。sensory substitution は感覚代替とでも訳せようか、例へば、触覚を視覚の代はりに使ふことができるといふ現象である。1960年代に Bach y Rita が行つた研究が有名で、カメラから入力した信号により碁盤目に配列された多数の端子を振動させ皮膚を刺激する機械をつけて訓練すると、物が「見える」やうになるのだ。

 

同様の研究は、カメラの情報を音に変換する方法でも行はれてをり、Peter Meijer による vOICe といふ装置がその例である。この装置をつけて物を「見た」人達は、「確かに聞こえてゐるのは音なのだが、二つの異なる入力として感じられる」とか、「全ての物には独特の音があり、その基本を身につけると、何を見てゐるかが分かる」といつた感想を持つらしい。この現象も、sensation と perception の独立といふ考へで説明できると著者は考へる。

 

著者は、外界を知るのは perception の働きであり、sensation は、個体の外界との係りをたどり、今、ここにゐるといふ感じを生むもので、sensation を持つことで人は意識を持つのだと主張する。sensation は、外界を知るといふ働きにおいては、side-show (付けたり)に過ぎないのだが、自分といふ意識を生むことで、自己保存に真剣に取り組ませるといふ機能を持つといふのだ。

 

この sensation と perception の独立といふ考へ方は興味深いが、sensation が side-show に過ぎないといふのは言ひ過ぎだらう。blind-sight の「視力」は、かなり限定的なものではないか。これが視覚の基盤にあることは確かだとしても、sensation は、視覚を豊かにするといふ点でも、大きな役割を持つと考へるのが良いと思はれる。

 

とは言へ、sensation が意識と深く係はつてゐるといふ指摘は正しい。ロボットには perception はあつても sensation はないのではないか。ベルクソンの用語で言へば、ロボットには perception pure 純粋知覚はあるが、時間的な深みを持たない、といふことにならう。

 

著者は、結局、mind-body problem 心身問題は錯覚に過ぎない、といふ意見である。この結論には同意できない。記憶や意味の問題を考へるには、時間と空間、身体と精神といつた二元的な分離が不可欠だと思はれるからだ。この問題については、別に述べる予定。