自惚れと見栄

自分が成功者だとは思はないが、年の初めの自戒として、アラン(1868-1951)のプロポから(1921年9月9日)。

今は引退した、ある有名なバイオリン奏者で、多くの優れた点の中でも常に正確な音を出すといふ特質を持つてゐた人が、バカンスを過ごしたイタリアから帰国した。調子は如何ですか、十分に休養できて満足ですか、といふ型どほりの質問に、落着いた調子で、かう答へるのが聞こえた。「体調は良好です。有難う。音が外れますがね。」この言葉で、私は自分の剣術教師の厳しい教へを思ひ出した。この先生も、バイオリンと同じやうに難しい術において、神髄を窮めた人だつたが、その知識により謙虚でゐて、よくかう言つてゐた。「数日稽古をしないだけで、眼の前にベールが下りてくるやうになる。剣を振り回すことはできるし、偶々突きが決まることもある。察することはできるが、見えない。子供が本をたどりながら読むやうに、馬鹿みたいな練習を再開すると、少しづつベールが上がり、相手から来るのが全て見え、何をすべきかが分る。どんなに早く剣が動いても、君を見てゐるやうにはつきりと見えるのだ。」

本物の芸術家は、見栄から速やかに解放される。受けるに価する称賛でなければ、むしろ苛立たしいからだ。しかし、自惚れからも解放されなければならない。これが力を持つ者の第二の段階だ。自惚れと見栄の違ひは何か。見栄つ張りは、盗作した作家が褒められるやうな、嘘の印でも満足するが、自惚れ家は、証明し作品を生む真の力を喜ぶ、といふ点だ。そして、自惚れ家はいつでも、一度手に入れた力はそのまま残ると考へてゐるといふ点で、空(うつ)ろである。例へば、それに値しないのに勇気を示す勲章を喜んで付けてゐれば見栄つ張りであり、何度も証明された自分の勇気に、財産に安住するやうに安んじ、いつも自分の過去の行動を考へ、それで充分であると望むならば、自惚れ家となる。そして、彼の勇気を泉から水が出るのを期待するやうに待つてゐる他人には、それで充分なのだ。しかし、彼自身は、多くの活動の後でも、生れた日のやうに何も持たず裸である上に、人間の上に出なければならないといふ重荷や役割がある。それは彼にとつて最初の日と同じやうに難しく、彼の経験によつて、時には一層困難となる。

学者も、彼の過去の知識を奪はれてゐる。それに身を包めば、自惚れから見栄へと投げ出される。学があり、褒められ、どこでも讃へられる人間の自負は、度を越した愚かさの元である。自惚れの罰が見栄だとも言へよう。胸を張り、他人よりもうまくやれると信じ込むや否や、一番低いところにゐる。根気強く仕事をして来た人は誰でも、手に入れて了つたものなど何もなく、全ては勝ち取らねば、勝ち取り直さねばならぬといふ気持でゐる。老いた賢者で、今や休息の権利を得た人が、人々が難しい事柄を論じてゐた時に、かう言つた。「以前は、私もそれが分つてゐたのだが。」

芸術家たちは、他のだれよりも、この大法則の下にゐる。一つの作品を仕上げると、作品作りが簡単になるといふことは正しくないし、ありさうもないことだからだ。さうだとしたら、自分を模写せねばならないだらう。そして、芸術家自身にとつても、他の人たちにとつても、これほど明白な衰退の印はない。この悲しい感覚によつて、才能が流儀へと堕落するのだ。だから、どんなに小さな成功でも、旧に倍する苦労によつて打ち破られることを求める。ベートーヴェンは、その経歴の終りにおいても、仕事に取り組み、古い歌に近代的な和音を書く力があつた。さうして自分の天才を取戻し、この生徒のやうな模倣によつて、創造することができた。作られた諸作品は、比較の基準と成り、我々にそれを超えるやうに呼びかける。だから、栄光は保障されてゐないのだ。栄光は、恐るべき試練なのだ。心がそれを喜んでゐるのは最初だけだ。やがてそれが重荷となる。さう感じないとすれば、下り始めた印だ。それは毎朝踏み出さねばならない強ひられた前進なのだ。要するに、社会の趣味は天才自身の批評によつて保たれてをり、彼らの作品が批評なのだ。彼らだけが、妬みを疑はれることなく、厳しくなれる。健康に良い考へで、あらゆる妬みから解き放つものだと思はれる。どんなに小さな栄光でも、持ちこたへるのは大変なのだから。これを大臣に適用しよう。彼が登り詰めたと思つたら絶望だ。試練は始まるのだ。この高い地位にゐて小者であれば、すぐ眼につく。同じ言葉を暗誦するだけであれば、出来事に笑はれるだらう。大成功は、人を謙虚にする。さもなければ馬鹿にする。