Sensation と Action

Nicholas Humphrey の"Seeing Red, A Study in Consciousness"の面白い点は、前回書いたもの以外にもある。例へば、生物が外部からの刺激やそれに対する自分の反応がどうなつてゐるかを知るには、身体を動かすための命令信号をモニターするのが簡便であり、この働きがsensation へと進化したので、sensation は一種の身体的な運動(action)であるといふ考へ方だ。

 

かうした議論の一環として、著者は sensation と action を比較し、5つの共通性を取上げる。(p.82-83)

 

所有 sensation は常に主体に属する。Sが赤の sensation を感じる時、また痛みを経験する時は、Sはこの sensation を所有する。それは彼のもので、他の誰のものでもない。Sが唯一の作者だ。彼が微笑むときに、この表情を所有し、その作者であるやうに。
身体の位置 sensation はいつでも指標となる語であり、主体の身体のある特定の部分を思ひ起させる。Sは、赤の sensation を彼の視野のこの部分に感じ、痛みを彼の足のこの部分に感じる。Sが唇で微笑むときに、その微笑みが本質的に彼の顔のこの部分を含むやうに。
現在性 sensation はつねに現在時制で、進行中、未完成である。Sが赤の sensation を経験し、痛みを感じるときには、その sensation はここにあり、今さしあたつてのものに過ぎない。その経験は以前は存在しなかつたし、Sがそれを感じるのを止めると存在しなくなる。Sが微笑むときに、その微笑みは今だけあるやうに。
質的様態 sensation はいつでも複数の質的に異なる様態のうちの一つの感じを持つ。Sが赤の sensation を感じるとき、これは視覚 sensation の部類に属する。しかし痛みを感じる時には、それは全く異なる身体的 sensation に属する。それぞれの様態は、その部類に独自の感覚器官と結び付いてをり、言はば、その独自な現象の様式を持つ。Sが唇で微笑むときに、この表現が顔の表情といふ部類に属し、たとへば声による表現、涙による表現と対照的であるやうに。それぞれの表現の様態は、その部類に独自の効果器と結び付いてをり、独自の媒体や表現の様式を持つ。
現象の直接性 一番重要なことに、主体にとつて sensation はいつも現象として直接的なものであり、上に述べた四つの特徴は、自己を開示する。従つて、Sが赤の sensation を持つとき、彼の印象は単に「私は、今、眼の視野のこの部分に赤にしてゐる(redding)」といふものである。それが(他の誰かのものではなく)の眼であるといふ事実、それが彼の(他の場所ではなく)であること、それが(他の時ではなく)起つてゐること、そして、それが(たとへば聴覚や嗅覚ではなく)視覚において起つてゐる何かであるといふこと、これらはSが直接に無媒介に意識してゐることであり、それはこれらの事実を起すのが、赤の sensation の作者Sだからといふ理由による。Sが唇で微笑むとき、彼の印象は単に彼の唇が微笑んでいるといふことであり、この行動に対応する全ての性質は、微笑みの作者としての彼が、同様の理由で、直接に意識してゐる。

 

Humphrey は続けて、かうした機能が進化により生れて来た道筋を示さうとする。87頁には、かうある。

 

これらの反応は、後の我々が知つてゐる"sensation"の原形である。しかし、原始的な動物においては、かうした感覚的な反応は、反応に留まつてゐて、受容や拒否のために身体をくねらせてゐるだけだ。この動物が、どこかの段階で生じてゐることについて、何か精神的に意識を持つと考へる理由はない。
しかし、この動物の生活がより複雑になるにつれて、何が自分に影響を与へてゐるかについてのある種の内的な知識を持つことが有利となり、その知識をより洗練された計画や意思決定に使ひ始める時が来ると想像する事ができる。自分の身体の表面での刺激を精神的に表現する力が必要なのだ。
この力を育てるための一つの方法は、感覚器官からの入る情報を初めから分析することからやり直すことだらう。しかし、これでは巧くない。といふのは、実際には、刺激についての必要な詳細--どこで刺激が生じてゐるか、それがどのやうな種類の刺激か、それにどう対処すべきか--は、すでにこの動物が適切な感覚的反応を起す時に出してゐる命令信号にコード化されてゐるからだ。従つて、何が起きており、さらには自分がそれについてどう感じてゐるかを知るには、自分自身がその刺激に対して何をしてゐるかを見てゐるといふ簡単な巧いやり方がこの動物にはあるのだ。

 

意識は脳内に生じる一種のループである、といふ類の議論は多いが、Humphrey は、sensation の段階で、すでにさうした自己言及が進化により生れて来る道筋を示さうとした。自分の身体の状態、自分の動きが感覚に影響を与へることは、自己観察に優れた人達が古くから指摘して来たことだが、Humphrey 流の考へ方で研究を進めれば、その科学的な裏付けができる可能性がある。

 

ただ、「計画や意思決定」といふ働きは、意識を前提にしてゐるのではないだらうか。「自分の身体の表面での刺激を精神的に表現する力」が役に立つためには、記憶し、対象化し、意味づけする主体といふものが必要ではないだらうか。意味づけは、現在するものだけに捉はれるのではなく、これを対象化し、他のものと関係づけることによつて生まれる。かうした現在からの離脱は、時間的な要素を抜きにしては考へにくい。ベルクソンが持続(durée)といふ言葉で示さうとしたのは、それだらう。(Humphrey も"temporal thickening"に言及してゐるが、結局、これを脳内のループと同一視してゐる。)

 

Humphrey は、問題をあくまで現在するもの(物理学が対象とするもの)によつて説明しようとするために、無理をしてゐるといふ感じがする。例へば、sensation により生れるのは、動物自身に何が起つてゐるかを示す、情感を伴ふ、様態に固有な、身体を中心とした絵姿なのだが、より中立的、抽象的で、身体から独立した外部の世界の表象を持つことも便利なので、生物は、今度は初めから感覚刺激を分析する機能を育てることとなり、それが perception の元となるのだ、といふ議論にそれを感じる。

 

ともかく、意識を論じる際に、知覚、とくに視覚を取上げて、その具体的な性質について分析するといふ手順は、論点を明確にし、科学的な知見との関連を整理するために、有効なものだと思はれる。