お伽話の意味

アラン(1868-1951)が1921年9月10日付けのプロポで、お伽話について書いてゐる。

 

お伽話が正しいのは、外部の秩序は人間の秩序に比べると無視できるものだと考へてゐるといふ点だ。距離は大したものではない。人間は夢の中でのやうに、魔法の絨緞に乗つて、または空飛ぶ龍に運ばれて跳び越える。物理的な障碍は大したものではない、様々な勢力が好意的であれば。これは、我々の試練や不幸の有様をかなりうまく表現してゐる。農夫は、開墾しながら、木の根に不平は言はない。大地に打克つのは彼の喜びなのだ。同じ男が、裁判沙汰になると眠れなくなる。どう進めば良いのか分らなくなるからだ。向かつて来る勢力は、全てを止める。狩人は、雉に羽があることに文句は言はない。しかし、立て札には怒り出す。人間は、活動してゐると、やがて人間に突き当たる。生活の物質的な問題は、物で簡単に解決できることに気付いて欲しい。道を付け、開墾し、耕し、運び、交換する、これは容易(たやす)いことだ。我々は好んでそれを難しくする。パリからロンドンまで、空路で行く必要がどこにあるか。しかし、成功するのは喜びだ。ただ、空の王者が宿に帰ると気難しい、あるいは頑固に口を開かうとしない女性がゐる。ここから本当の困難が始まる。

大きな災禍は戦争だ。そして戦争は、全て人間から来る。戦争で費やされたお金が、もつとうまく言へば、戦争で消費され廃墟により使はれる労働時間があれば、何ができただらう。学校の周りの公園、城館のやうな病院、澄んだ空気、滋味豊かな牛乳、皆に鶏のポトフ。それは簡単なことだつた。しかし、拒否、不信、強情、怒りの費用は非常に大きく、仕事で得た富は手の中で消えてしまつたかのやうだ。これを遥か昔からある人々の作り話がうまく表現してゐる。欲望の前には、地球も大きくはない。素敵な王子様はすでに出発した。間もなく着くし、戻つて来るから心配は要らない。終つた旅を王子が語つても、短い話だ。しかし、王子が出発しようとすると、老いた魔女の呪文で、部屋の床から離れられない。誰かの命令により見えない鎖で繋がれたことのない人がゐるだらうか。普通、命令には正当な理由があるが、実際の人生では、その理由が本当の理由であることはない。お伽話は、根つこまで見透す。魔法使ひや魔女は、年取つてをり、すべての若く美しいものに反対する。この人間の世界では、専制の殆どが退屈してゐる人々から来る。要するに、人間はとりわけ人間に依存してゐるのだ。一人の専制君主の気まぐれが、突然、次から次へと続く災難に人々を引きずり込む。だから、お伽話が言ふやうに、錯綜した政治に比べれば、膨大な手仕事はずつと簡単なのだ、といふのは正しい。お伽話は、これを機嫌の悪い魔法使ひによつて見事に表現してゐる。

もう一つ気付くのは、この驚くべき描写で、魔術は魂には入つて来ない、といふことだ。妬(ねた)みや怨(うら)みを癒す魔法使ひはゐない。魔女は素敵な王子様を見えない鎖で縛ることができ、青い鳥に変へることさへできるが、王子が選んだ人を愛さないやうにすることはできない。青い鳥になつても、王子は愛する人の窓辺に来て歌ふ。これは、精神が隷属状態にはなく、超自然的な力さへも超えてゐることを意味するだらう。それに、お伽話では、大抵、魔法使ひにはこれを邪魔する別の魔法使ひがゐて、勇気ある愛と強い意思は、一貫性のない情念を通り抜けて、その目的へとたどり着くことになる。かうして、真心に与へられる冠は、偶然の力で美しさを増す。これは重要な点だ。諸力は、人間の力でも宇宙の力でも、全てが同じ方向には向いてゐないので、実直な心が遂には道を見出すことになるのだから。お伽話を読むのは良くないと、誰が言ふだらうか。現実の経験は巧みに化粧を施されゐて、経験から学ばうとする者達の眼には、私がお伽話に見出す強く刺激的な真実が隠されてゐることに気付いてゐれば。

 
ここでアランが語つてゐるのは、お伽話がこの世界の政治的な現実を描き出す力だが、より一般的に、お伽話が人々の価値観を左右する力は大きいと思はれる。以前テレビで放映してゐた『まんが日本昔ばなし』も、さういふ意味では馬鹿にしたものではない。無味乾燥な教理よりも、かうしたお話の方が、人々の心に響くのだ。

 

では、現代のお伽話はどこにあるか。