時間や意識が「ある」とは

入不二基義氏の『時間は実在するか』には、実在(reality)といふ概念の意味・側面として、以下の5つが挙げられてゐる。(286-7頁)

 

(1) 本物性:みかけ(仮象)ではない「ほんとうの姿」であるもの
(2) 独立性:心の働きに依存しない、それから独立した「それ自体であるもの」
(3) 全体性:「ありとあらゆるものごとを含む全体」、あるいは「その全体が一挙に成り立っていること」
(4) 無矛盾性:矛盾を含まない整合的なもの
(5) 現実性:ありありとした(いきいきとした)現実感が伴っているもの

 

「時間はあるか、幻にすぎないか」といふ問ひを考へる時に、「ある」とは何を指すのかについての見方が様々では、意味のある議論はできない。しかし、「ある」とは何かは、西洋哲学の基本的な大問題で、それを論じるのは手に余る。ここでは、時間の存在といふ問題を考へる際に参考となると思はれる論点を二つ三つ挙げてみたい。

 

第一に、何かが「ある」といふのは、それが不変であり、客観的に示されることだ、といふ考へ方が普通で、これは、物に働きかける人間の知性の性格と、集団生活の必要から出て来たものだといふ点。

 

上に挙げた入不二氏の分類の(1)、(2)、(4)などに、この普通の考へ方が反映されてゐる。人の知覚は誤ることがある。見かけではなく、その元となる確かな物を掴まねばならない。心が動揺すれば、物の見え方も変はるが、物自体は不変のはずだ。さうした確実な物をつかまへないと、これにしつかりと働きかけることはできない。また、一人の人間にしか見えないやうなものは、社会生活では役に立たない。時によつて白であつたり、黒であつたりすると見えるのは、矛盾であり、本当の色は一つのはずだ。変はつて見えるのは、外の光や見る者の状態が異なるからだ。

 

かうした考へ方は、物を相手にしてゐる時には都合が良いが、それ以外の対象では、をかしなことが起る。例へば、人の心。自然科学は、上記の普通の考へ方を基礎にして厳密さを高めたものだ。だから、自然科学者には、意識は脳の働きの随伴現象にすぎない、と主張する人達がゐる。脳は誰にでも見えるが、意識はその人にしか分らないものだからだ。

 

確かに、意識の在り方は物の在り方とは違ふ。しかし、意識は私自身そのものだと言つても過言ではない。それが幻だ、といふのは行き過ぎではないか。科学者は、自分の手法で扱へないものは存在しないと言つてゐるに過ぎないのではないか。現象学の考へ方は、かうした自然科学の一面的な見方に対抗するものとして出て来たと言へるだらう。入不二氏の分類の(5)は、心の在り方を指すと見ることもできる(著者の意図とは違ふかも知れないが)。

 

時間のあるなしの議論が非常に込み入つたものになるのは、物の存在についての考へ方や、それに基づいて作られた言葉を時間に当てはめようとすることが一因だと思はれる。(入不二氏の本では、これを整理しようとする試みもなされてゐるが、素人があの複雑な議論を追ふのは大変だ。哲学が一般の人々にも役立つものになるためには、一層の努力と工夫が必要だと感じる。)

 

第二に、時間といふ言葉の意味も広がりを持つてをり、これが議論を複雑にしてゐること。時間は「ある」だらうか。時間といふ言葉があるからには、人間が、この言葉で表されるやうな経験をしてゐることは確かだ。「覆水盆に返らず」や、"A watched kettle never boils"がそんな経験を表現してゐる。

 

ただ言葉は、歴史とともに、新しい意味合ひを持つやうになる。時計の発明は、時間と数字列を結びつけ、空間と時間との類似性を感じさせることとなつた。相対性理論は四次元空間で表現される、といふ説明も行はれた。これが、空間の性質と時間の性質との根本的な違ひを分り難くして、議論の一層の混乱を招いた。

 

空間と時間の違ひは大きい。例へば、空間の中は、どこでも行き来ができる(少なくとも、その可能性がある)が、過去や未来とは行き来できない。また、空間の点はどれも平等だが、時間では現在が過去や未来とは全く異なる重要性を持つ。(タイムマシンの可能性は、SFのみならず科学でもワームホールのやうな形で論じられてゐるらしいが、過ぎた昔は返つて来ないといふのが、一般の人間の経験だ。さうでなければ、上に挙げたやうな諺は生れまい。人間の日常的な経験を遥かに超えた世界で、時間と空間とが溶け合ふやうな事態が生じる可能性は否定しないが。)

 

第三に、時間と意識とは深い係りがあるといふ点。意識は変化して止まない(つまり、いくつもの状態を持つ)が、一つでもある。これは形式論理的には矛盾だ。しかし、この意識の不思議な性質こそ、時間といふ言葉を生んだものだと言へるだらう。世の中に変化するものしかなければ、次々と新しい現在が来るだけで、変化はあるが、時間を語る必要はない。変化の中にゐて、自らも刻々と変化しながらも一貫性を持ち続ける意識があるからこそ、また、さういふ意識にとつてだけ、時間が問題になる。時間の不思議は、意識の統一性の不思議と同じものだと言へるかも知れない。

 

ただ、一度、時間の概念が確立すれば、人間のゐないところでの時間を考へることもできる。地球の誕生は約46億年前だとの論が成立する。この時間は、人間の日常的な経験とは離れて、安定的だとされる周期的現象を物差しとして世界の変化の速さを数値化したものだ。言はば、科学的な、空間化された時間である。

 

意識にとつての時間と、科学的な時間とのどちらを本質的だと考へるかによつて、時間の在り方についての立場にも大きな違ひが出るだらう。