エリートの衰亡(公務員の場合)

これまでの日本が「お上」任せで何とかやつて来られたのは、戦後の混乱が落ち着いた後には、政府の力が問はれるやうな大事件が比較的少なかつたことと、かつての日本のエリートがそれなりに立派だつたことに依る。何故、日本のエリートは堕落したのか。国家公務員の場合について考へてみる。

"Noblesse oblige."(ノブレス・オブリージュ)といふ考へ方がある。エリートは人並み以上の能力や恵まれた環境を持つて生まれ育つた人達なので、社会に貢献する責任もそれだけ大きいといふことだ。「ノブレス」とは、高貴な人達、歴史的には貴族を指す。貴族は、生まれながらに貴族だ。しかし、現代の日本には、さうした人は(皇室を除けば)ゐない。政府の高官も、大会社の重役も、皆、元は庶民だ。金持ちの子息や元華族の御曹子はゐるだらうが、彼らも、自分は生まれながらに社会に貢献する責任を負つてゐると思つてはゐないだらう。責任感は庶民なのだ。だとすれば、現代日本のエリートの社会的責任の自覚は、教育や経験により生まれる他はない。

役人を見て来た個人的な印象では、戦前の入省と戦後の入省とで大きな差があると感じる。戦前入省の人達は、口にこそ出さないが、戦死した友人達に恥ぢない国を造るのだといふ気概があつた。それが、いつの頃からか、何を目指して役人をやつてゐるのか分からないやうな人達が増えた。経済復興が成つて日本の目標がよく見えなくなつたことも一因だらう。

しかし、それだけではなく、自分は勉強が出来るのだから、大変な努力をして来たのだから、社会から尊敬され、一定の給与を貰ふのは当然だ、といふ風潮が出て来たやうに感じる。責任の部分ではなく、権利の方ばかりが強調されるやうになつたのだ。責任感における庶民化が極まつたと言ふべきか。

かうした変化は、いろいろな時点で見られるが、大学紛争が一つの転機になつてゐるのではないだらうか。あれ以降、社会の在り方を若者が声高に論じても世の中は変はらないし、むしろそれはダサいことである、そんなことに力を使ふくらゐなら、面白をかしく世を渡る方が良い、といつた考へ方が広まつたやうに見える。庄司薫氏の小説には、さうした当時のエリートの雰囲気が活写されてゐる。

役人の世界では、所謂キャリア官僚の汚職が問題になつた頃から、堕落が目立つやうになつた。それまでも汚職はあつたが、一定以上の昇進が望めないノン・キャリアが多かつたし、キャリアが係はるのは、政治案件が主だつた。この変化は、バブルで東京近辺の不動産価格が高騰し、役人の退職金では遠い所に小さな家を買ふのがやつとになつたことも、一因であると思はれる。(この辺りは、実証的な検討を要す。)

かうした汚職は、官僚批判を招き、その社会的な地位や待遇は、時とともに低下することとなつた。批判は当然だし、公務員の「身から出た錆」ではあるが、それが役人のやる気を更に損じたことは否めない。もともと、役人のやる気は、企業に勤める人達とは違ひ、自分等はお国のために働いてゐるのだといふ気概から来てゐる部分が多いと思はれる。それが、尽くしてゐる相手の世間から批判ばかりされてゐると、「誰の為に毎日遅くまで働いてゐると思つてゐるんだ」といつた愚痴も言ひたくなる。

公務員のやる気を損ねた原因の一つには、省益優先もある。公務員にならうといふ人間は、多少とも、お国のために働くつもりでゐるのだが、入省して眼にするのが、省庁間の縄張り争ひや、幹部の出世競争だつたりすることも少なくない。かうした個人間、組織間の競争は、どの時代にも見られるものだが、組織としての大きな目標が見当たらなくなると生じやすいのではないだらうか。

日本国の課題がなくなつた訳ではない。公務員の動きが内向きになつたのは、むしろ、少子化の進展や財政赤字の拡大などの大きな問題が次第に顕在化して来た時代でもある。では、何故、役人は積極的に働かないのか。かうした大きな問題は、一省庁の力では解決できないからだ。問題は分る、しかし、自分の力だけでは解決できない。さうした状況では、残念ながら、組織的、個人的な保身に走る者が多い。こんな場合にこそ政治の主導が必要なのだが、長い間、政治家達も選挙民に厳しい選択を迫るやうな問題を避けて来た。

貴族の場合には、役人や政治家を辞めても貴族である。家族を養ふのに苦労はない。しかし、庶民から出て来たエリートは違ふ。別の世界で立派にやつて行ける人もゐるが、それは少数派だ。保身に走ることを批判してみても、それで問題は解決しない。

要するに、現代の日本が直面してゐるのは、庶民ばかりの社会で、如何にして本物のエリートを育てるか、といふ問ひであるやうに思はれる。