市民の抵抗

アラン(1868-1951)が市民の抵抗について書いてゐる(1927年4月のプロポ)。これだからフランス人はうるさいのだ、と納得するとともに、民主主義のあり方やそれを維持するための手間について考へさせられる。

 

「法則(法律)とは、諸物の性質から派生する必然的な関係である。」(訳註:フランス語の"lois"は、法則も法律も意味する。)広大な意味を持つ表現で、私には一巡りすることもできないが、自分に気に入る法律を求めて駆け出すと、固い物であるかのやうにこれに打ち当たる。教師は、どんな人でも、様々な法があり得ることに気を配り、生徒の機嫌を取らうとする。見てゐると、自分の意思で決められるところでは、融通がきくのが分る。しかし、彼の後ろには何ものかが姿を見せる。教師は、そのものの名で命令してをり、それによつて締めつけられてゐる。それは原因と結果の連鎖であり、彼も私もそれから逃れられない。使つた金は使つたので、それが無かつたことにはできない。冷たい顔の借金といふ言葉が示すところだ。生産は一つの事実であり、収穫もさうだ。毎日の売上高も、雨や雹や風がさうであるやうに、一つの事実だ。そして一陣の風によつて一本の樹が倒されるのは、地球が回るのと同じやうに避けることができない。また、戦争、借財、賠償等々の過去の取返しのつかない多数の出来事は、我々に非人間的な圧力をかける。その無頓着な様は、飛び出した自動車が、端に寄つてゐない人間を石のやうに突き飛ばすのと同断だ。さて、教師が私に端に寄るやうに注意する時には、ものごとの主人なのではなく、むしろ必然性の伝令であり奉仕者なのだ。税金や軍律などもさうして出て来る。教師がかういふのは正しいのだ「君達が嫌なやうに私も嫌なのだよ。」要するに、人は許される範囲で生きるので、望みどほりに生きるのではない。

結構だ。私は自分に返る。これらの様々な雨を避けるこの穴の中では、私には考へる暇がある。考へる(pense)、即ち、重さを量る(pèse)のだ。私は疑ふ。疑ひは遠くまで私を連れて行く。最初に注意したいのは、人々は簡単に間違へ、可能か否かを考へずに、しばしば自分の好みに拘(こだは)るといふ点だ。この良識的な注意は、私にも誰にとつても有益である。教師は自分の好みで命令してをり、然るべく命令してゐるのではないかも知れない。「君達が嫌なやうに私も嫌なのだよ。」知るべし。支配者は国庫に金があるのを好む。支払ふことは、私はそれほど好まない。幕僚は一足の靴に磨き手が三人ゐるのを好む。私は靴墨を塗るのがそれほど好きではない。そして、教師が私に提案し必然として押しつけることの中には、多かれ少なかれ、必然的ではなく、ただ彼が好む部分が必ずある。このフェルトのやうに押し縮められた社会の中で、誰も自分の手元より先は良く見えないところで、私はそれをどうやつて知ることができるか。「私達は神の意志について何を知つてゐるだらうか。私達がそれを知る唯一の手立てはそれに逆らふことなのに。」『人質』(訳注:ポール・クローデルの戯曲)の中でクフォンテンヌは言ふ。重い言葉だが、恐らく不用意なものだ。しかし私は耳が聞こえないわけではない。だから私はかう言はう。「頑固に抵抗しないで、どうやつて本当に必然的なものを知ることができるだらうか。」

風や海や波を生む盲目的な法則について考へると、別の思ひが湧くので、余計にさう言ひたい。私は譲歩する。さうせねばならない。しかし、帆船が間切つて進むやうに、しばしば自分が望む場所に行き着く。船は必然に譲歩はするが、結局、風に逆らつて進む。何故、政治的な必然の最初の要請に従ふやうに人が私達に説くのか、私には分らない。人間は何世紀も前から、自らの工夫で風に逆らつて船を進めてゐるのに。この政治の海で、最初の波に屈し、私が行きたいところではなく漂流物のやうに先づ流れが向かふところに行くのは、意気地無しで人間以下だといふことにならう。もつと良いのは、丁度私が向つてゐるところに行く人達と一組の乗組員となることだ。だから、大胆に君の道を進みたまへ。

私は、この短い政治的な考察で、期待してゐたよりもずつと先に進んだ自分に気付く。人間は波を崇めないことを学んだのだ。単に計算に入れ、ためらふことなく、できる限りそれを自分の目的に役立たせる。必然は非人間的だ。それを憎むのは馬鹿げてゐる。それを愛するのも同じ位に愚かだ。従つて、私が政治的なことがらにおいて必然性を見出すとすれば、(必然性が私の真の唯一の主人なのだが)、私は尊敬を免除される。この巨大で恐るべき機械の前では、私は注意深く動くことを望む。しかし、決してそれを崇めることはない。それは他のと同じ、もう一つの敵だ。ここでの私の唯一の目的は、風や波に対してするやうに、従ひながら勝つことである。これが私の市民憲章だ。私は人間に対して義務がある。そのとほりだ。しかし、必然に対しては私は何の借りもない。

 

日本では訴訟が少ない。それだけ平和な国だと言へるだらうか。しかし日本にも利害の対立が無いわけではない。それは裁判に訴へることなく穏便に解決されてゐるのか、あるいは誰かが泣き寝入りしてゐるのか。他方で、判例が少ないことは、法律を運用するための指針が少ないこと、法律を改正するための参考資料が少ないことを意味する。かうした問題点と、争ひが(表面的には)少ないこととを天秤にかけると、どちらが価値が高いだらうか。一般的な結論を出すことは無理だらうが、制度に対する異議を唱へる習慣を持たない日本人が、決められた制度に従ふのは得意でも、制度自体の設計が余り得手でないのは、当然だと言へるだらう。