『物質と記憶』に関するベルクソンの注釈 其の一

4年前から、Press Universitaire de France 社が、ベルクソンの著作を注釈つきで出し始めた。『物質と記憶』には、参考資料として、ベルクソン自身がこの著作について述べた注釈が付されてゐる。これは、Lachalas といふ人が、Annales de philosophie chrétienne といふ雑誌に書いた『物質と記憶』に関する書評の一部であり、以前からベルクソンの著作以外の文章を集めた Mélanges にも一部収められてゐたものだが、今回の本の方が、より長く引用されてゐる。非常に興味深い文章なので、以下に訳してみた。(Henri Bergson "Matière et mémoire" Quadriage/PUF, pp460-465)

 

文中で、「 」の中がベルクソンの文章、それ以外が Lechalas の文章である。どうやら、Lechalas は手紙でベルクソンに質問し、ベルクソンも書面で回答したやうだ。

 

最も理解が困難なこの第一章を前にして読者が解決すべき最初の問題は、この本の最初から最後まで繰り返し出て来る「イマージュ」といふ言葉をどう解するかといふ問ひである。この言葉は、しばしば普通の受取り方で出て来る。しかし、その意味では通らないと思はれる個所も同様に多い。主観を離れた意味を持つと見えるからである。実際、イマージュは存在する、また、かうしたイマージュが選ばれて我々の知覚の一部になる、とある。かうした表現に与へるべき意味をしつかり決めたいと考へ、我々はベルクソン氏に我々を苦境から救ひだすやうに頼んだ。彼の回答は以下のとほりである。

「イマージュは、私の理解するところでは、本当のです。つまり、全ての知識から独立した現実です。私の意識を、さらに一般的に全ての個人の意識を消しても、「イマージュ」は存続します。 唯一の違ひは、イマージュが私達が知覚しないものの分だけ大きくなり、私達がそれに働きかけるために押し付けてゐるある種の形が取り除かれる、といふことです。ですから、この第一章では、どこでも、「イマージュ」といふ語を「物」といふ語に置き換へて問題はありません(註)。もし、実在論や観念論のために、私達がこの言葉で、知覚されない或いは仮定された、我々の知覚の原因を指すことに慣れてゐなかつたならば、私はこれを使つたでせう。この理解では、私達の知覚は色彩、抵抗等であり、物は原子、または諸力、諸関係の集合体なのです。私は逆に、物は、私達の知覚の外にあつても、その知覚の中にあるのとほぼ同じもの、つまりイマージュだと見てゐるので、さう呼んでゐるのです。この用語を使ふことで、私は少なくとも一つの仮説を避け、直接的な知識の、お好みであれば常識の、状態に自分を置きます。何故なら、常識は、物がその現れたとほりのものであると、つまり知覚されたとほりのものであると、要するにイマージュだと考へてゐるのですから。」

(註)どこでもは言ひすぎだと思はれます。「イマージュ」といふ語が意識の状態を指す場合が多くあるからです。(ベルクソンの註)

(中略)網膜に光の振動を送る点Pを考へよう。振動は様々な神経中枢に導かれる。ある中枢はこれを運動機構へと伝へ、ある中枢は一時的にこれを止める。後者の中枢は、意志の未決定を象徴し、これに関係した傷は、私達に可能な行動を減少させ、そのため知覚も減少する。従つて、未決定の領域は知覚-運動過程の道筋にあり、そこで、あたかも光線Pa、Pb、Pc (a、b、cは網膜上の点)がこの道筋にそつて知覚されてから点Pに投射されるのであり、知覚は刺激を受け止める神経要素で説明されるのであり、興奮はこれらの神経要素にそつて進み中枢に届いた後に、そこで意識的なイマージュに変換され、それがPに外化されるのであるかのやうに全てが過ぎる。しかし、「事実は、点P、それが放つ光、網膜、関係する神経要素は連動した一体を成すのであり、点Pはこの全体の一部分であつて、Pのイマージュが形成され知覚されるのは、他の場所ではなく、Pにおいてなのです。」

この考へ方を理解できず、我々はベルクソン氏に詳しい説明を求めた。以下がその回答である。

「哲学者が、(一般的な意見に反して)PのイマージュがPの外にある意識の中に形作られ、それからPに投射されるのだと考へる理由を探してみませう。別の言葉で言へば、私がP以外の場所にゐると信じる理由です。(訳註)「Pに触れるためには、身体を動かさねばならない」といふ理由以外のものを最初に思ひつくことはできないのではないでせうか。私は、Pに触れるためには移動せねばならないといふ意味で、Pの外にゐるのです。言葉を換へれば、私のPに対する行動は直接的ではなく、私の身体は、間にある諸物体を横切るといふ条件を満たす場合にのみ、Pに触れ、変化させ、動かすことができるのです。私が実際の間隙を信じ、そしてPと私の区別を信じてゐるのは、最初は、結局のところ、この物体と私の身体を区別してゐるだけで、この区別は触覚だけに係るものです。暫くの間、触覚的な感受性(とこれに結びついた運動能力)が無くなつたと想定してみませう。視覚しか経験したことがない(更に移動ができない)存在を想定してみませう。彼は、彼自身が、彼の身体が占める場所にゐるのと同じ程度に、Pにゐると感じないでせうか。私の意見では、私達は、私達の知覚が広がる様々な点に実際にゐるのです。少なくとも、さう表現するのが一番自然でせう。別の表現を採用して、触覚に優先的な地位を与へ、私達の実際の存在を触覚的な影響が及ぶ空間の極めて限定された部分に限るやうになるのは、行動する必要からです。この意味で、私は、次のやうに言ふことができたのです。私達の知覚は((身体そのものの変化に対する)感受性と、特にその比重が大きい記憶とを無視すれば)、先づ「イマージュ全体」の中にあり、又は、こちらの方がお好みであれば諸物一般の中にあり、その後に、私達の知覚-運動の、あるいは触覚の、経験によつて、私達がそれを用ゐて他の全てに働きかける組織された物質の部分に、私達の存在を限定するのだ、と。

(訳註)原文では、この文の後ろに引用の終りを示す記号"》"が付されてをり、ベルクソンの言葉がここで終はるやうに読めるが、これは誤植と考へ、ベルクソンの意見が続いてゐるものとして訳した。

デカルト以降の全ての実在論者、観念論者の学説を調べれば、全てが-意識的に又は無意識に-この私達の身体とその他の物質との根源的な区別から出発してゐることが分かるでせう。私の身体が、私の知覚する他の物体から切り離されてゐて、この身体は自足し、精神と結ばれ、他の全てから離れてゐると想像されるのです。そこで、この身体の内部のどこかに、或いはそれと密接に結びついたものとして、残りの物質についての多かれ少なかれ忠実な表現複製が必要になるのです。この表現の材料は身体の外側の感覚に求められます。そして、これらの感覚だけでは期待されるものが得られないのが明かなので、これらを脳の中枢に集め、その中枢もどんどん限定して、ついには全ての表現を空間から広がりを持たない意識の中へと追ひ出し、表現は、そこから空間に投射されて、それが由来する外部の諸物体を蔽ふ、とするのです。私は、この第一章で、この見方が全ての点において解決不能な困難を惹起することを示さうと試みました。真実は、私の身体は他の諸物体と同じやうな物質でできており、私の意識は他の物体よりも私の身体に余計に結び付けられてゐるといふことはなく、最初は、意識が知覚するもの、知覚し得るものの全体と(少なくとも一部において)符合するのです。」

(中略)ベルクソン氏にとつては、すでに見たやうに、逆に、諸物体が私達の表象と全く類似したイマージュなのである。しかし、ここに一つの困難が現はれる。同じ物体が全く異なる感覚を生じさせるが、物体自体はどのやうなものなのか、といふ問題だ。例へば、もし私の手の片方が冷たく他方が暖かいとき、生温かい湯につけると、湯は一方では熱く他方では冷たく感じられる。この反論に対して我々が彼から得た回答は以下のとほりである。

「私は、一方で感覚そのもの、あるいは(身体そのものの変化に対する)感受性、これらは身体の内側にあるのですが、他方でイマージュ、これは身体の外側にある、この二つの根本的差異を明かにしたと信じてをります。冷たい、熱いといふ感覚、より一般的には私が自分の身体にあるとする全ての感覚'は、何よりも、それが生じる部分の状態に依存します。感覚は、私の身体がそれを受け入れようとするか、避けようとするか等によつて非常に異なる様相を呈します。ですから、私は、熱い、冷たい、その他の多くの感覚が大きな部分で私の身体の状態に関係してゐること、そして、この状態に固有で、それに伴ひ変化する欲求を表してゐることを喜んで認めます。しかし、知覚そのもの、つまり私の身体の外に位置してゐるイマージュについては全く別です。」

 

(つづく)