『物質と記憶』に関するベルクソンの注釈 其の二

(前回からのつづき)

 

(中略)(ベルクソンは)光の波動に起因する印象がどれほど圧縮されるかを浮き彫りにする。最も振動の少ない赤でも、1秒間に生じる波動を個別に知覚するためには2万5千年を要することになるからである。もし圧縮度が次第に高くなれば、我々は黄色、緑、青、紫を知覚する。さらに高いと、光の感覚を生じなくなり、赤よりも低い場合も同様である。個々の振動の明確な知覚、現実に最も近づくであらう知覚は、どのやうなものになるかと問はれるだらうか。ベルクソン氏は、この点に関して、希釈について語る。希釈は、虹が我々に生じさせる感覚とどのやうな関係にあるのだらうか。

この反論に対する我々の回答は、我々を非常に驚かせた。彼は、我々にかう書き送つてきた。

「ここで、少し説明をすることをお許しいただきたい。恐らく私が本の中でこの説明をして置かなかつたのは誤りでした。私は全ての物理や化学の理論に二つのものを見ます。即ち、1)適切に選ばれた変数の間に確立された数学的関係、と、2)これらの数学的関係を私達の想像力に描いてみせるためのイメージ(例:振動、原子、など)です。数学的関係は、実験がそれを裏付けるといふ意味で、真実のものです。イメージに係る表象については、私はどれもが私達の様々な知覚を、触覚的な知覚に翻訳したもので、便利だが恣意的なものだと見てゐます。化学者の原子はどうでせうか。原子は絶対的な大きさを持ちますが、触覚的な形(触覚によつて知覚されるといふ意味です)は、絶対的な大きさを持つ唯一の知覚です。何故なら、視覚的な形は観察者の位置や距離によつて変はるからです。従つて、ここで化学者が私達に想像するやうに求めてゐるのは、触覚的な知覚なのです。光学や音響学における振動も同様です。振動に絶対的な振幅、絶対的な方向などが与へられるといふ点だけからでも、私達は有り得る触覚的な知覚について考へるやうに求められてゐるのです。非常に微妙なものであるのは確かですが、必ず触覚的なものです。何故なら、触覚だけが、知覚される形や大きさの点で、対象に対する観察者の位置とは独立に決められる知覚だからです。ところで、この全ての知覚の触覚への置き換へが、科学が成り立たせる数学的な関係の不変性を表象するためには便利であり、必要でさへあるのは、議論の余地がありません。しかし、これは何ら諸物の現実に対応するものではありません。そして、数学的には有用ですが、心理学的には理解できないものです。何故なら触覚的な知覚の要素を集めるとどうして音や色になるのか、私には決して理解できないからです。それでは、私の仮説はどのやうなことから成るのでせうか。単純に、視覚の要素は視覚的に、聴覚の要素は聴覚的に思ひ描くことを求める、等といふことです。これは恣意的な仮説だと仰(おつしや)るでせうか。しかし、触覚から聴覚や視覚を組み立てるといふのも、別の意味で、恣意的ではないでせうか。よく見てみませう。科学と意識の間、感覚と動きの間に掘られた深淵は、全ての動きや揺れを有り得る触覚的な知覚として思ひ描くために、他の知覚が、定義上、それを生じさせる動きとは異質な何かになることに起因するのです。しかし、繰返しますが、私にはこの後者の仮定が恣意的なものに思はれます。そして、逆に、光の究極的な要素は光であることは自然で、反証でもない限り、自明なこととさへ見えるのです。しかし、ここで急いで有り得る誤解を避けておきませう。例へば、音を極限まで希釈しても音の性質を保つのか、もつと小さな変化で音は変はり、消されるのに、と質問されます。ここでも私の説明が良くなかつたのでせう。音の振動の間隔を次第に広がると、つひには私達の意識には音が聞こえなくなることは確かです。ですが、私は、私達よりも緊張度の低い意識、つまり各瞬間を圧縮するといふ法則に従ふことなく、諸物をよりあるがままに知覚する意識を想像します。この意識は、個々の振動を音の揺れとして知覚し、それも触覚や視覚ではなく、聴覚的な形で知覚すると思ひ描くことはできないでせうか。私達には当然何も感じない形ですが、聞こえる最も低い音よりも更に低い音を思つてみるやうに、思つてみることはできる形として。もし、これをより明確な形にすることがお望みであれば、私の仮説の否定的な部分だけを採り、私達の知覚一般を構成する基礎的な揺れの図式を触覚的に思ひ描くことは止めて、対象となる知覚の種類ごとにイマージュを要求するといふ提案として受取つて下さい。この解釈で、この本の第四章で取上げた、運動と具体的に知覚される質との中間項を探すといふ目的には充分です。」

(中略)我々に残されてゐるのは、研究対象の著作が、この説を深く知らうとする者が直面するにも係らず、明確にしてゐない問題について述べることである。身体がなくても、我々が我々の過去の全般的な記憶を持つとされるやうに、我々は対象全般の知覚を持つのだらうか、といふ問ひである。この質問をベルクソン氏に問うたところ、その回答は以下のとほりである。

「私はこの質問を意図的に未解決の状態としました。実際、記憶の場合では、私は思ひ出される記憶が、無意識の形で保存されてゐる過去の状態全体の中から選ばれると主張する明確な理由を持つてゐました。逆に、知覚の場合には、知覚されるイマージュが実際の知覚よりも広い畑からどのやうに摘み取られるかを見て、それを示さうと試みましたが、この潜在的な知覚がどこまで広がるかを決める手段は何もありませんでした。貴方がお手紙で引用してをられる事実そのもの(即ち、音が一秒当たり一定数の振動以下では聞こえなくなること)や、その他の同種の事実は、私達の実際の知覚が一つの選択であることを十分に証明してをり、また、宇宙が私達の実際の知覚の地平に留まると考へることができないことは、私達が身体で実際に知覚してゐる以上のものを、潜在的には知覚することを証明してゐます。それに、他の仮説では、意識的な知覚が私には理解不能なのです。しかし、繰返しますが、潜在的なものはどこまで広がるのか。私達の精神は、ライプニッツが考へたやうに、物質の全体を潜在的に知覚するのか。それとも、その中で私達の感覚が選択を行ふ全体的な知覚は、私達が実際に知覚するものと不可分な体系を形作つてゐるのか(恐らく、物質的な世界は唯一の体系を成すのではなく)。特に、この潜在的な(つまり身体と独立した)知覚は、対象を区別する私達の実際の知覚と似通つたものなのだらうか。あるいは、具体的なものでありながら、性質、質、形状を対象とする科学的な知識の方に近づくのだらうか。どの質問にも、私は証明の無い仮説でしか応へることができません。ところが、私は事実の輪郭にできるだけ沿ひ従ふこと、あらゆる形而上学的な構築を慎むこと、そして、直観に戻ることを目指して来ました。直観が何も語らないところでは、私は止まらなければなかなかつたのです。」

 

このベルクソンの説は、原子のやうな科学が生んだシンボルよりも、我々に直接与へられてゐる「イマージュ」の方が本質的だといふ考へ方に基づいてゐる。