Nature 誌の日本語版ダイジェストの3月号の表紙に「
幽体離脱は体感できる」といふ文字が見える。元の記事は、同誌の2011年12月8日号に載つた"Out-of-body experience: Master of illusion"といふ解説記事だ。錯覚を利用して「体外離脱」を可能にする
スウェーデンの
神経科学者 Henrik Ehrsson 氏の工夫に満ちた実験が紹介されてゐる。『nature ダイジェスト』の翻訳から引用してみよう。
Ehrssonは、錯覚を利用して、人々の自己意識を探り、拡張し、移動させる。今日は、ビデオカメラとゴーグルと2本の棒だけを使って、私が自分の身体の後方2~3mのところに浮いているよう感じさせてくれた。仮想の胸にナイフが向かってくるのを見て、私はそれをよけようとした。私の指に取りつけた2つの電極は、反射的に皮膚からどっと出た汗を記録した。近くのノートパソコンは、私が瞬間的に恐怖を感じたことを示す鋭い波形をグラフにプロットした。
Ehrsson が作り出す錯覚は、対外離脱だけではない。彼はこれまでに、ほかの人との身体の交換、3本目の腕の獲得、人形サイズへの縮小や巨大化といった錯覚を誘発することに成功している。
Ehrsson が作り出す錯覚は、視覚と触覚をものの10秒ほど欺くだけで、確信を、いとも簡単につき崩してしまう。この驚くべき順応性は、脳が感覚器官からの情報を用いて、間断なく身体所有感覚を組み立てていることを示唆する。
子供が自分の身体を自覚するようになる過程については、すでに様々な実験があり、身体感覚(これは知覚=運動感覚と言ひ換へても良いだらう)が学習によつて得られることは知られてゐるが、Ehrsson 氏の功績は、一度学習された身体感覚が可塑的なものであり、簡単に変はるものであることを実験的に示したこと、さうした実験を行ふ手段を提供したことだらう。身体感覚としての自己意識は、感覚の一種であることが再確認された訳だ。
こうした錯覚は、すべての人が体験できるわけではない。ダンサーや音楽家など、視覚に頼らずに自分の四肢の位置を正確に把握できる人々は、普段の実験で被験者になってくれる学生たちよりは錯覚を経験しにくいのではないか、と Ehrsson は考えている。けれども、彼が作り出す錯覚は、おおむね5人中4人に対しては有効だ。
興味深い事実で、身体感覚が視覚と強く結びついた知覚=運動感覚であることを裏付けてゐるとも言へるだらう。
Ehrsson は時々、体外離脱体験をしたことがあるという人々から、怒りの手紙を受け取るという。「彼らは、自分の魂が肉体から離れたのだと信じているので、似たような経験が実験室で誘発できると聞くと、自分自身が脅かされたように感じるのです」と Ehrsson は言う。彼はそうした抗議に対しては、「自分には彼らの主張を反証することができない」という、そつのない答えを用意している。しかし Metzinger はもっと率直だ。「Henrik の研究は、魂だとか脳から独立した自己だとかいったものは、要するに存在しないと証言しているわけです」。
Metzinger 氏の気持は分るが、それほど明白な問題ではないかも知れない。自分の外から自分の姿を見るといふ結果においては、体外離脱と Ehrsson 氏の実験とは良く似てゐるが、それを誘発する過程は異なる。例へば、現実の対外離脱をした人は、ゴーグルを掛けてゐたわけではない。Ehrsson 氏の被験者は、間違ひなく自分の眼でゴーグルに映し出された自分の後ろ姿を見てゐるのだが、体外離脱をした人は、誰の眼で見てゐるのだらうか。
いづれにしても、体外離脱といふ経験が限られてをり、不明確な点が多いので、先づは、この現象についての事実を積み上げることが重要だらう。
Ehrsson 氏が、この錯覚を実用的な面で役立てることに取り組んでゐるといふのも、非常に興味深い。当面の目標は義肢の開発で、将来的には極小ロボットに憑依して患者の体内で手術を行ふとか、強大なロボットに乗り移つて
原子力発電所を解体する事も不可能ではないはずだ、と言ふ。
哲学的にも実用面でも、興味深い研究だ。