日本衰退の原因 2

<教育の問題>
前回述べたやうな日本における社会的な教養の欠如は、学校教育が不適切であることが最大の要因だらう。教へるべきことを教へてゐないのだ。社会科について言へば、出来あがつた制度については教へても、その制度の持つ意味や他の制度との比較などは教へない。

かつて、日本の教育は世界的にも高水準だと言はれたことがあつた。今でも、初等教育については高く評価する意見もある。しかし、決まつてゐることを如何に早く飲み込ませるのは得意でも、「何故」といふ問を抑へつける傾向があるといふ点が問題なのだ。

そもそも「何故、勉強しなければならないのか」といふ子供等の問に日本の大人はどう答へてゐるのだらうか。多分、一番普通の回答は「良い学校に進み、良い会社に入るため」といふものではないかと思ふ。つまり、勉強は出世の道具であり、世の中で出会ふ具体的な問題解決の手段ではない。内田樹さん @levinassien が朝日新聞やブログで書いてをられたやうに、大学生、正社員といふ位置さへ確保すれば意味のなくなるものなのだから、合格のために払ふ努力は少ない程、効率的で良いといふことになる。大学に入つて仕舞へば、卒業に必要な単位を取ることだけを考へる。

井上ひさしが脚本を書いてゐた『ひよつこりひようたん島』に登場するサンデー先生が、勉強をするのは金持になるためでも褒められるためでもなく、「男らしい男、女らしい女、人間らしい人間、さうよ人間になるために」なのだと歌つてゐたのを思ひ出す。大人には、せめてこの位の答はして欲しい。福澤諭吉の『学問のすすめ』を読めば、もつとしつかりと答へられるやうになるだらう。閑話休題

言ふまでもなく、「何故」を問はないのは、本来の学問の在り方ではない。日本でかうした傾向が強い一因は、この国が学問の後進国だつたといふ歴史的な事実にある。海外から齎された優れた知識は、その由来を尋ねるよりも、結果を早く応用することに主眼が置かれた。これは後進国としては合理的な対応だが、「何故」が省かれたことで学問が浅いものになつただけでなく、庶民には学問を「有難い」が良く分からないものにするといふ結果を招いた。お経などはその典型と言ふべきだらう。学問が庶民に根付いてゐないのだ。

また、社会科に限つて言へば、戦後日本の民主主義が外から与へられた民主主義であつたことも影響してゐる。民主主義とは、国の諸制度が上から与へられるのではなく、国民が自ら規律を定めて行く国の在り方なのだが、日本の国民にはさうした意識が非常に低い。代議制は制度作りの一手段でしかなく、国会議員はそのために国民に雇はれてゐるのだが、主人たる国民の方では、相変はらず「お上」である政府が作つて与へて呉れるものだと考へてゐるので、制度の持つ意味を考へたり、他の制度と比較することには関心がないのだ。また、文部省も国民がさうした事柄に関心を持つことを好まなかつたのではないかと思ふ。冷戦下で左翼思想へのアレルギーがあつた時代には、特にさうだつただらう。

<根本的な議論を避ける傾向>
さらには、日本では根本的な議論を避ける傾向がある。白黒や勝ち負けをはつきりさせることを好まない。これは、伝統的、閉鎖的な村社会では一般的な傾向だらう。その意味で、日本は今でも村社会なのだ。伝統的社会で構成員も基本的な仕組も変はらないのであれば、「何故」を持ち出すことは秩序破壊にしかならない。構成員の気持を考へ、人間関係を乱さないことが一番重要になる。「和を以て貴しと為す」聖徳太子の十七条憲法第一条は、象徴的だ。

日本が、荒海の日本海によつて大陸から隔てられた島国であり、外国からの文化が入つて来ても、外国に占領されたことがなかつたといふ歴史も、根本的な議論の欠如の一要因だらう。大陸のやうに、突然、言葉の違ふ異民族が襲つて来て、その支配下に入るといふ状況では、話は基本的な部分から始めざるを得ない。日本は、基本的な問題を議論しなくても生きて来られるといふ幸せな境遇にあつたのだとも言へよう。

<理屈と理念>
また、日本には屁理屈に対する強い軽蔑の念がある。からごころに対する宣長の批判は、さうした日本的な現実主義の最も進んだ形だと言へる。これは正しい批判なのだが、理屈には、理念といふ側面がある。理念は、世の中をまとめるための考へ方を言葉で示したもので、民主主義といふのもさうした理念の一つだが、世の中が複雑になれば、理念は不可欠となる。かむながらの道では済まないのだ。

理念が必要なのは、人間が論理的な(鋭敏な公平感を持つ、あるいは損得勘定に長けた)動物であるために、社会を纏めるにはそれなりの公平感、公平についての論理が必要だからだ。伝統的な社会では、それは暗黙の了解となつてゐるが、制度を改革するのであれば、新しい理念を明示する必要が出て来る。大きな組織や大衆を動かすには、分り易い言葉(時には単純な標語)が必要なのだ。

今の日本は、世界が大きく変はる中にあつて変革を求められてゐるのだが、さうした議論をするための知識もなければ、歴史的な経験もなく、言葉も持ち合はせてゐないといふのが現状だと言はざるを得ない。かうした状況をはつきりと認識して、教育の在り方を変へて行くことが不可欠となつてゐる。

(続く)