「ある」といふこと

「ある」とはどういふことか。

 

世の中に確かにあるものは何だらうか。例へば、眼の前の石。躓けば痛いし、投げれば窓ガラスが割れる。しかし、石は原子の集合体に過ぎないので、本当にあるのは原子なのではないか。その証拠に、石の形はやがて崩れるが、原子は(私達が通常経験する条件下では)変はらない。

 

註: 石を構成してゐる原子と独立してゐる原子とでは、電子の状態などに違ひがあり、同じ原子とは言へないのではないか、といふ議論もあり得る。しかし、化学反応の前後を考へる場合には、原子を一つの不変な要素として扱ふことができる。だからこそ、原子といふ考へ方が意味を持つ。

 

テレビに映つた像は「ある」か。像はピクセルの集合に過ぎず、言はば幻であり、「ない」のだとすると、私達がそれを見聞きして心を動かされるのは何故か。「ない」ものが何らかの効果を生むといふのはをかしくはないか。

 

上のやうな問ひについて考へてみると、「ある」と「ない」との区別が、それを論じる時間的枠組みや他の物との関係によつて変化し得るものであることが分かる。

 

註: 「もの」と「こと」といふ日本語を使つて、それ自体は変化せずあり続ける何かを「もの」とし、時間とともに変化する「もの」の組合せのあり方を「こと」として、テレビは「もの」で、画像は「こと」である、といふ議論もあり得る。本質と現象といふ西洋哲学の用語でも同様の議論が可能だらう。しかし、素粒子の世界では変化が常態であることを考へると、「もの」と「こと」の差、本質と現象の違ひも絶対的な区別ではなく、程度の差と言ふべきものではないだらうか。

 

かうした前提を踏まへた上で、テレビの画像が「ある」のだとすれば、その存在を保証してゐるものは何だらうか。別の言葉で言へば、テレビの画像は、何に対して存在してゐるか。また、どのやうな条件が満たされればテレビ画像は「ある」のだらうか。テレビ画像の有無は、人間を前提に考へるのが普通だらう。犬や猿などの動物、さらにはロボットにとつてのテレビ画像を考へることも可能だが、先づ、人間を前提に議論を進めよう。

 

そこで、どのやうな条件が満たされればテレビに画像が出てくるか。画素の粗さ、明るさ、コントラスト、変化の速度などを変へながら調べれば、人間にとつて画像が見える条件が決められるだらう。

 

どうすれば画像が出てくるかを調べるには、もう一つの方法がある。それは、見てゐる人間の側の状態を変へてみる、といふ操作だ。色眼鏡をかける、片目で見る、脳に電気刺激を与へる、などで見え方がどう変はるかを調べるのだ。

 

さて、人間の意識についても、「ある」「なし」の議論がなされることがある。意識は脳の活動の随伴現象に過ぎず、本質的な存在とは言へない、といふ主張も耳にする。しかし、テレビ受像器とその画面に映る像との関係のやうに、意識が脳といふ物質の運動とは別の次元である種の働きを持つてゐることは確かなので、意識は「ある」と考へるのが妥当だと思はれる。