倫理的な正しさ

倫理的な正しさは、どうすれば分かるか。

前回、「正しいとは、現実に即してゐること、規則に従つてゐることだ。」と書いた。倫理的な正しさの問題は、現実に即してゐるか否かではなく、決められた規則に従つてゐるかどうかである。殺すなかれ、盗むなかれ、等々の人の道を外れないことだ。

その正しさは、現実がどうなつてゐるかとは無関係である。むしろ、現実には殺人も窃盗もある。「世に盗人の種は尽きまじ。」だからこそ、盗むなかれといふ決まりには意味があるのだ。倫理的な決まりは、物理的な法則とは異なり、事実の説明ではなく、理想の提示なのだと言へよう。

しかし、規則は抽象的なものに留まらざるを得ないので、実際の行動を決めようとする際には、規則の曖昧さや規則間の矛盾のために迷ふことが少なくない。

「殺すなかれ。」良いだらう。だが、戦争で敵を殺す場合はどうなのか。「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」といふ例も多い。職場と家庭の板ばさみや、嫁姑の争ひで妻と母との間で迷ふ男が想ひ浮ぶ。

また、理想の姿はそれを考へる人によつて異なるかも知れない。様々な倫理的規則の内で、本当に正しいのはどれだらうか。多様な倫理体系の間に優劣はあるのだらうか。

倫理の基本的な役割は、社会的な秩序の維持だ。「郷に入つては郷に従へ」といふ諺が示すとほり、社会の決まりごとは様々だが、大切なのは皆がそれを守らうとすることだ。この観点に立てば、多くの人々が正しいと認めるのが良い倫理だ。

その意味では、個々の決まりの是非や優劣ではなく、決まり全体の整合性、効率性が重要な要素になる。人間は論理的な生き物なので、矛盾する規則を信頼して守ることは難しい。また、同じ結果が得られるのであれば、規則は簡単な方が良い。

他方で、規則が理想なのだとすれば、すべての人が必ず守る規則、自動的に守られるやうな規則をわざわざ定めることは無意味だと言へる。

いづれにしても、規則を人間が定める限り、様々な規則が出来ることは避けられさうにない。物事には色々な見方があるのだ。しかし、社会が纏りを保つためには、ある程度以上の整合性を持つた規則群が必要だといふことは、どの社会にも当てはまる事実だと言へるだらう。