知覚はどこにあるか 2

1.知覚には脳以外の身体の状態も重要な役割を果たしてゐる。

知覚において脳が大きな役割を果たしてゐることは確かだが、全てが脳の中にあるといふ考へ方、あるいは言ひ方には、弊害が多い。その一つが、脳以外の身体の役割を見失ふことだ。例へば、頭を回して周囲を眺める場合を考へよう。私達には、自分の頭が回り、世界は静止してゐる、と感じられる。ところが、回転椅子に座つて頭を前に向けたまま椅子を回すと、静止してゐる自分の前で世界が回り出すやうに見える。この例が示すやうに、私達の知覚には、自らの身体の運動についての情報が織り込まれてゐるのだ。

しかし、身体の運動に関する情報も脳内で処理されてゐるのだから、全ては脳の中にあると言つても良い、といふ反論もあるだらう。確かに、身体の運動状態についても、何らかの形で脳内に反映されてゐるだらう。しかし、それは完全な形の反映になつてゐるだらうか。言葉を換へれば、脳内の情報だけから身体の運動状態を完全に知ることができるだらうか。少なくとも、身体の構造に関する基礎的な情報が無ければ、脳内の動きだけから身体の運動を再現することはできないのではないだらうか。宇宙人が人間の全ての脳細胞の動きを解析したとしても、人間の身体構造を知らなければ、脳がどのやうな働きをしてゐるかを知ることは困難だと思はれる。

だとすれば、知覚を研究する場合には、脳だけではなく、身体のその他の部分についても考慮することが重要であるし、少なくとも物事の見通しを良くする可能性がある。

2.脳の状態が私達の知覚を表現してゐるといふ考へ方は、見直す必要がある。

科学者は、視覚に係はる脳神経の動きが私達に見えてゐる物を表現してゐる、と考へてゐる場合が多いが、本当にさうだらうか。さういう言ひ方が何を意味するのか、一度、吟味してみる必要があるだらう。

そもそも、何故、一つの物が二つ以上の意味を持ち得るか、といふのは大きな問ひである。脳神経の活動は、脳神経そのものであると同時に、私の見てゐる世界の姿を「表現」してゐるのだとすれば、何故、そのやうなことが可能なのだらうか。

かうした言ひ方の基礎になつてゐるのは、言ふまでもなく、私達の言葉である。「樹」といふ言葉は、音声であらうと、紙に書かれた文字であらうと、コンピュータの画面に表示された光の点の集合であらうと、そのものであると同時に、英語では tree、フランス語では arbre といふ言葉で表される、この世界に存在する物を指してゐる。なぜ、言葉は、他のものの意味を担ふことができるのだらうか。

私達が言葉を使へるやうになるのは、多くの学習の結果である。外国語を学ぶ苦労から分かるとほりだ。しかし、私達は言葉を使ふ潜在的な力を持つて生まれてゐる。ここでは、結論だけ簡単に書いておくと、言語が意味を担ふことができるのは、意識的な存在としての人間がそれを解釈してゐるからだと思はれる。

ところで、言葉のやうな記号表現の特徴は、恣意性にある。何を使つても対象物を差し示すことができる。様々な言語があるといふ事実がそれを端的に示してゐる。つまり、記号表現が意味内容を持つてゐるのは、記号表現そのものの力ではなく、記号表現に意味を読み取る者の力のお陰なのだ。

脳神経の動きと見えるものとの関係には、この恣意性があるだらうか。脳神経の働きが学習によつて変はる、視覚も身体を動かす経験を重ねることによつて初めて身につく、といふ意味では可塑性はある。しかし、どの神経でも視覚を生み出せる訳ではない。その意味では、脳神経が見えるものを表現してゐるとは言へない。むしろ、脳神経は物が見えるといふ現象の一部だと見るのが正しいと思はれる。その証拠に、脳神経を傷つけると物が見えなくなる。しかし、記号表現がなくても、それが指す意味内容が消える訳ではない。「樹」といふ言葉が消えても、実物の樹木は残る。

「樹」といふ言葉と実物の樹木とは結びついてゐる。また、視覚と脳細胞の活動にも関連がある。しかし、両者の関連のあり方は、同じ「表現」といふ言葉で表すのは不適当だと思はれるほど異なつてゐる。比喩的な用法だとしても、事は、問題の定義に係はる。用語によつて研究の方向が狭められ、歪められる恐れがあることは、忘れてはならないだらう。