知覚はどこにあるか 3

1.知覚の投射といふ考へ方の限界について

知覚(今考へてゐる例では視覚)が脳内で生まれる現象だとすると、眼に見えてゐる世界の姿は、脳内から外部に投射されてゐると考へざるを得ない。すると、何故、これ程に形や色彩の変化に富んだ姿が生み出されるのかが分からなくなる。ベルクソンは、神経系統の働きは外部からの刺激を材料にイマージュを形作ることではなく、外部のイマージュから自分に関係する部分を切り取ることにあると考へた。私達が感じる世界の豊かさは、私達から投射されるのではなく、世界が元々持つてゐる豊かさの一部なのだ、といふ訳だ。

ベルクソンの論旨は、カントの説への反論として、物自体を知ることは私達には不可能なのではなく、私達が知覚してゐる世界は、その一部分ではあるものの、本物の世界である、といふ点にあつたので、上記の議論には単純化された部分もある。ベルクソン以降の脳神経科学の発展で、視覚情報が脳内の様々な部分でどのやうに処理されてゐるかが、かなり細かい点に至るまで明らかにされて来た。さうした知識を踏まへて彼の議論を読むと、不十分なものと見えるかも知れない。

しかし、さうした処理の結果として、何故、私達が見るやうな色彩豊かな一つの世界が立ち上がるのか、脳における処理のどの段階でさうした像が得られるのか、等の問題については、現代の科学でも、はつきりとした見通しが立つてゐない。意識や知覚は「幻想」に過ぎないといふ議論まで出て来ることがある。

生物が知覚によつて外界を認識し、これに対応して生き延びてきたことを想へば、生物の知覚の延長線上にある私達の知覚が「幻想」だといふことは考へ難い。生物によつて切り取る部分が異なるので、見える世界の姿は様々だが、どれも世界の一面であり、その意味で、どの知覚も世界を正しく反映してゐるのだ、さう考へる方が現実を正確に把握できるのではないだらうか。

脳内の様々な処理も、対象である世界の姿をより良く見るための生物の工夫の(あるいは進化の)結果だと考へるのが適当だらう。個々の脳細胞の活動から世界の姿が立ち上がるのではない。元々一つの世界の姿を、脳があちこちの視点から分解、分析し、身体による世界への働きかけに役立てようとしてゐるのだ。

2.錯覚や誤解の源

もし、私達の知覚が、世界の姿を部分的にであれ正確に反映してゐるのだとすれば、何故、錯覚や誤解が生まれるのだらうか。一つには、人間が解釈する者であり、見かけと真実とを区別しようとするからだらう。

グラスに差したストローは折れ曲がつて見える。だが、ストローは真つ直ぐなので、折れて見えるのは錯覚だといふことになる。しかし、折れて見えるといふことも確かな事実だ。それは、ストローは真つ直ぐだといふ事実に加へて、光は水と空気の境目で屈折するといふ事実を示してゐる。さうした諸事実の複合的な現れだとして見れば、ストローが曲がつて見えることは、真実そのものである。

ただ、かうした科学的な知識や関心を持たず、当面の実用に心が向いてゐる段階では、つまり普通の人間は、ストローが曲がつて見えるといふ事実を「錯覚」として位置づけることになる。

そもそも、与へられる様々な情報の中からストローといふ物を切り出す、あるいはストローといふ形を纏め上げることが、対象に働きかける動物としての人間には基本的な機能になつてゐる。やうやくストローといふ物にたどり着いたのに、それが水に漬けただけで曲がるのでは適(かな)はない。実際、水から引き出せば、元どほりに真つ直ぐなストローだ。「これが本当のストローの姿なのだ。曲がつて見えたのは錯覚に過ぎない。」さう考へるのは、人間には自然なことなのだ。

3.「投射」的な要素としての記憶

知覚が世界の一部であるといふ上記の議論は、ベルクソンの言ふ純粋知覚に関するもので、知覚の全貌ではない。私達の知覚には記憶が関与してをり、それは外界からの刺激には無い要素を知覚に付け加へる。ここにも、錯覚や誤解の原因がある。

言葉を変へると、私達の知覚は、外部からの刺激が脳で処理されるといふ一方通行の過程ではなく、私達と外界との対話なのだ。外部からの刺激で呼び起こされた記憶を頼りに、外界を詳しく見る。すると、それまで気づかなかつた細部が見えて来て、それが更に記憶を喚起する。ベルクソンは、記憶が関与する私達の知覚は、さうした循環的な過程なのだと言つてゐる。

豊かで混沌とした世界から自分に関心がある部分だけを切り出す「純粋知覚」は、ロボットにもあるとも言へるだらう。感覚器(センサー)には感受できる光の波長帯域があり、それを外れた光は感じない。見方を変へれば、特定の波長の光を選択的に検出してゐることになる。

ただ、この選択性は、言はば受動的なものである。判断を伴ひ、記憶が関与する知覚、私達が持つてゐるやうな知覚はロボットは持つてゐないと思はれる。ロボットのやうな受動的な知覚と、私達の能動的な知覚との違ひを分析することが重要ではないだらうか。ここでも、記憶といふ時間的な要素が鍵となるだらう。