そこで、先づ、この理論-「意識平面説」と略称する-の、心理学理論としての意義を検討しなければならない。どのやうな問題に応へる理論なのか、一般的な心理学理論たり得るのか、他のどのやうな理論に対するものか、といふ問ひである。『物質と記憶』の主な主張は、この非常に一般的な理論から出発しないと理解できないのかも知れない。かうして、心理学理論は、脳についての理論から導かれるものではなく、その前提条件なのではないか、といふ問ひを検討することとなる。同時に、詳述はできないが、当時のジャネとフロイトとの間の論争、また、現代の認知心理学や精神の哲学における論争において、『物質と記憶』が占める位置の特定を試る。
そして、この理論が、心理学の著作に留まらないこの本の他の部分とどう繋がるのかを示す。抽象的に見える第一章の純粋知覚の理論や、二元論の問題を解決するために第四章で粗描されてゐる現實の諸段階といふ形而上学の理論との関連がそれである。ここでは、意識が持つとされる役割が中心的な位置を占めることとなる。この著作の構成は、精神の哲学における意識の位置とでも言ふべき問題を問ひ直すものとなる。
それ自体の内容と『物質と記憶』の構想を生み出した役割を超えて、意識平面の理論は「媒介となるイメージ」として、ベルクソンの哲学全体を見直す契機となる。概念を発展させる基礎となるだけではなく、独創的な哲学的直観を、また、我々が自分自身との間で持つてゐる一般的な関係を示すイメージとして。
1)ここで問題になつてゐるのは、主観的な意識連合の問題ではなく、外国語の単語の知覚の問題であること。母国語の場合、知覚ー運動系の働きで半ば自動的に音の流れの中から単語が切り取られ、意味が理解されるが、外国語では、聴き取るだけでも、「耳」以外のものが必要となる。聴き手のうちにある情報の源としての知識、この外国語にそれと気付くことが求められるのだ。
問題とされてゐるのは、音と意味の連合や、音の知覚と意味の理解のどちらが先かといつた点ではなく、両者が別ものでありながら一つに収斂するといふこと、あるいは同時に知覚であり理解であり解釈であるやうな一つの動きにおける両者の係りである。
2)知覚に対する連合や解釈は、現在のイマージュの集まりからではなく、過去の知識、獲得した知恵など、知覚により与へられるものとは別のものから出て来るといふこと。異なる平面や水準といふ話までは行かないとしても、実際の知覚と精神がそれに付加する表現との間には、性質の明確な相違がある。
3)この相違は、知覚によつて個人的な思ひ出が惹起される場合には、更に明らかになる。ここで重要なのは、それが主観的なものだといふ点ではなく、思ひ出そのものが多様であり、変化するといふことだ。耳に入つてゐるのは同じ音なのだから、知覚以外の表現、様々な深さを持つ記憶といふものを想定せねばならない。意識平面説が明かにしようとしてゐるのは、この根本的な変動性なのだ。
確かに、この理論を置く過程で、ベルクソンは根源的で形而上学的な説へと導かれる(最終的な本では、これらの説が先に来てゐる)。記憶は知覚にも介入し、精神を要素から成るとみることはできず、また、記憶は脳に収められてゐるのではなく「精神の中に」保存されてゐるといふ説である。しかし、最初の心理学的問題を忘れてはならない。表象の様々な段階を区別すると同時に、実際にそれらが収斂する在り方について考へる、といふ問題である。