ベルクソンの「意識平面」説 2

Worms 氏は、ベルクソンが取上げた心理学的な問題の例として、先づ、運動機構に書きこまれた習慣的な記憶と、個別の印象を保存する純粋記憶との違ひを取り上げ、『物質と記憶』から次の部分を引用してゐる。
(PUF版原書85ページ、ちくま文庫版105ページ)

 

(もっと先に進み、)意識はわれわれに、これら二種類の想起のあいだに根本的な相違、本性の相違があるのを明らかにしている(と言うことさえできる)。ある一定の朗読の想起は表象であり、また表象にすぎない。それは、私が私の好きなように延ばしたり縮めたりできる精神の直観のなかに収まっている。私はそれに任意の持続を割り当てる。(中略)反対に、覚えられた課題の想起は、私がこの課題を内的に繰り返すにとどまる時でさえ、まさに一定の時間を必要とする。朗読の為に必要とされる分節的発声の運動すべてを、(中略)一つ一つ展開するのに要するのと同じ時間を。それゆえ、この想起はもはや表象ではなく、行動である。

 

ベルクソンの分析が科学の進歩した今日でも有益な理由の一つは、二種類の記憶の根本的な相違といつた基本的事実を明確に示す点にあると思はれる。最近の脳科学の研究を傍から見てゐると、神経細胞の動きをどう分析するか等の方法論的、技術的な部分に捉はれて、自分が何を説明しようとしてゐるのかが分らなくなつてゐるといふ気がする。技法が重要であるのは勿論だが、身体(特に脳)と心の関係を説明しようとしてゐるのに、その心とはどのやうなものであるかが分らなくては、道が見えなくなるのではと余計な心配もしたくなる。

 

なほ、上に引いた文で「課題」とあるのは、「朗読」といふ言葉が出てゐることからも想像されるやうに、フランスの生徒がよく課せられる古典の暗誦を指してゐると思はれる。覚えた古典の一節を思ひ出すには一定の時間が必要で、これはある種の行為だが、ある日先生に指されて苦労しながら暗誦したといふ出来事を思ひ出すのは、一枚の絵を見るやうに、時間の長短には拘束されない、といふ訳だ。

 

ベルクソンはこの二種の記憶の差異を、失語症といふ経験的な事実で裏付けようとする。そして、脳の動きの中ではないとすると記憶がどのやうに保存されるのか、また、記憶は脳の動きとどのやうに協同するのかを示さうとする。

 

だが、その前に、ベルクソンは注意といふ現象について述べてゐる点に Worms 氏は着目してゐる。取上げられてゐるのは、以下の問題だ。(PUF版原書107ページから、ちくま文庫版131ページから)

 

再認が注意深いものである場合、すなわちイマージュ想起が規則正しく現在の知覚に加わる場合、知覚が機械的に想起の出現の原因となっているのだろうか、それとも、想起が自発的に知覚に向かって進むのだろうか。

 

Worms 氏は、この心理学的な問題が記憶の保存場所の問題に関係すると見る。知覚や運動が記憶と機械的につながつてゐるのであれば、脳のある中枢から他の中枢への移動で説明されさうだ。逆に、記憶が自発的に知覚や運動の枠組みの中に出て来るのであれば、それを中枢間の移動で説明するのは無理だといふのがベルクソンの考へだと述べてゐる。記憶が出て来るのが知覚が記憶中枢へと伝はるのよりも先だとすれば、記憶は伝播によるとは言へないし、想起がこの伝播の運動に逆行するものであれば運動とは言へない。

 

そこでベルクソンは、神経生理学的な検証の前に、注意の問題を取り上げることで、想起と知覚の伝播との優先関係を調べようとする。先づ、「注意」といふ現象にベルクソンが与へる正確な記述に Worms 氏は注目してゐる。(PUF版原書110ページ、ちくま文庫版134ページ)

 

それによって同じ対象を同じ周囲のもののなかで知覚している同じ器官が、この周囲に益々多くの事物を見いだすことになるような不可解な操作

 

この知覚の増加を理解するには、二つの見方がある。一つは、生(なま)の知覚が処理されて他の中枢に移動するとの見方、もう一つは、元の知覚が繰返され積み重ねられるといふ見方で、ベルクソンは後者の立場を取る。気をつけて見聞きするといふのは、元の知覚を離れてそれを処理するといふのではなく、それをさらに豊かなものにすることだ。

 

対象から出発したいかなる震動も、精神の深みへと至る途中で停止することはできない。対象から出発した震動はつねに対象そのものへと戻らねばならないのだ。
(PUF版原書114ページ、ちくま文庫版139ページ)

 

注意するとは、対象を「創り出し」あるいは「創り直す」仕事なのだ。réflection (反省、反射)といふ言葉が文字通り示すやうに、外部の対象物に内部のイメージを投げ返すのだ。対象に集中してゐるので、記憶を知覚に置き換へたことに気付かず、「思ひ当てた」ものが「見えた」と思ふのだが。私が読んだり聴いたりする単語には、先づ私が理解し予測した意味がある。この繰返される投射が精神に特有な仕事である。ベルクソンにとつての想起とは、思ひ出を探しに行くことではなく、知覚の中にそれを押しだす現実化のことだ。「注意」といふ言葉は、後に「知的努力」と言ひ換へられる。

 

この行為は、様々な深さで現はれる。知覚の枠組みが不変でも、精神によるその再創造の程度は多様で、連続的ではなく、跳び跳びで質的な変化を伴ふ。不連続性は、注意といふ作業の大きな特徴だ。

 

注意の行為は精神とその対象の強い連帯を伴い、それは非常にしっかり閉じられた回路であるので、高度な集中の状態に移るたびに新しい回路を一から十まで作り上げねばならなくなるのだが、これら新しい回路は最初の回路を含みつつも、見られている対象しか相互に共通なものは持っていない。
(PUF版原書114ページ、ちくま文庫版139ページ)

 

ベルクソンは、かうした精神の働きを、対象物を中心とする同心円といふ図によつて示す。

 

(つづく)