少数性生物学

「Natureダイジェスト」2013年3月号に、「少数性生物学」の研究を進める大阪大学産業科学研究所教授、永井健治氏の話が載つてゐる。「細胞内の反応は、生化学にのっとっている。分子であればアボガドロ数(10の23乗個)を基準にした濃度で表し、溶液中で莫大な数の分子がランダムに動いて、反応が平衡に達したときの状態を想定して論じ」るといふ生化学の常識を疑ふことから始めた人だ。

 

遺伝子の物質的本体であるDNAは、基本的に、1細胞中にたった2個ずつしか存在しないのに、生化学実験では莫大な数のDNAとタンパク質を反応させて何が起きるか調べている。しかし、本当に生物の反応にかかわる分子が、莫大な数存在すると仮定していいのだろうか。そもそも、それを調べなければいけない、とずっと思っていました。

 

2011年、文部科学省の新学術領域研究プロジェクトとして、小数個の分子の挙動から生命の原理に迫る研究班を立ち上げた。

 

大腸菌に発現する1000種類のタンパク質が、それぞれ何個あるかを数えた研究者がいますが、そのタンパク質の6割は10個以下とわかりました。
 また、大腸菌に含まれる水素イオンの個数をpHの測定値をもとに試算すると、わずか25個程度という数になります。
 また神経細胞シナプス形成部位(スパイン)にはAMPA受容体が存在しますが、1個のスパインに存在する受容体の数は数個から数十個という報告もあります。

 

小数個しか存在せず、反応の回数も数えきれるほどしかない場合は、確率や統計論(統計熱力学)が成り立ちません。反応が平衡に達するという仮定も、成立しません。分子1個の個性が影響するようになるとも考えられます。例えばタンパク質のような高分子は、構造にゆらぎが存在し、それが個性となるのです。
 細胞内の分子の実効体積も想定しなくてはなりません。従来の生化学ではそうしたことは無視しますが、高分子はそれ自身が大きな体積を占めるため、細胞内で動ける空間はそれほど大きくないと考えられます。

 

日常の経験でも、数が少ないことと個性とは深く関係してゐるが、さうした関係が生物の働きの基本的な部分でも成立してゐる可能性があるといふのは、実に興味深い話だ。また、生命が、本質的に非平衡的なものだといふことは、シュレディンガー等が早くから指摘してゐる事実だが、それが具体的な分子の動きといつたミクロのレベルで確認されれば、生命現象の解明が大きな一歩を踏み出すことになるだらう。

 

細胞性粘菌を実験材料に、研究が進められてゐる。

 

細胞性粘菌の挙動には、とても興味深いものがあります。cAMPという物質の個数を検出し、数の多いほうへ移動する走化性を示します。その際、粘菌細胞周辺のcAMPたった1個の違いを瞬時に区別できるセンサーを持っているのです。私たちの開発した可視化指示薬を用いて、小数の分子に応答するこうしたセンサーの仕組みを解明したいと考えています。

 

小さな蚊が人間の出す二酸化炭素や温度などを感知することは驚きだが、かうした話を聞くと、生物の研究が緒に就いたばかりであり、大きな可能性が開かれてゐることを感じる。永井教授の研究の更なる発展を期待したい。