政治を学ぶ

アランが1921年12月15日に以下の文章を書いてゐる。

 

誰も親を選んではゐないし、よく見れば友達さへも選んだのではない。選んで背が高く或いは低くなつたのではないし、金髪や茶色の髪になつたのでもない。事実を受け入れて、そこから活動しなければならないといふのは、私達の生き方の動かせない条件の一つだ。記憶が悪ければ、不平を言ふのではなく、何とかなるやう努力せねばならない。片耳が遠ければ、道を渡る時にその方向をしつかりと確認せばならない。憤慨してみても何にもならない。この考へ方は誰にも身近なものだ。私達は、自分の生れつきや環境が与へられたもので、着物のやうに取り換へることはできないことを容易に理解する。この押し付けられた条件を少し変へるので満足せねばならぬ。経験から、私達にできる変更は、全体の構造や制度に比べれば微々たるものなのが分かる。しかし、これも経験から、大抵それで足りることも分かる。最低の気分と最高との距離はわづかだ。態度を変へ、ある動作や言葉を慎むだけで、違つた色合ひの一日になることもある。正しく調和した音と間違つたきたない音との差、美しい曲線と優雅さのない輪郭との差は、わづかだ。必然性と能力とに関する立派な考へ方とは大まかには以上のやうなものだ。ヴァイオリンの正しい使ひ方を習ふのではなく、その形を変へようとするのは、子供染みた考へなのだ。
この考へ方が政治の世界では一般的ではない。人が、不正や戦争のやうな明らかな悪について考へる時には、先づ全てを変へれば後はうまく行くと想像するのが普通だ。しかし、元々の性質はここでも与へられてゐて、基本的なところは固まつてゐる。政治的な必然性が他のものよりも拘束が緩やかで、自分の国の憲法を変へるのが自分の鼻の形を変へるよりも簡単だといふことは有りさうもない。生物学的な必然性により押し付けられた構造に従つて生きなければならないやうに、自分が選んだのではない人間関係の状態に従つて政治を生きなければならない。ここで憤慨するのは、寒さ、霧、氷雨に腹を立てるのと同じ位に無分別だ。
鍛冶屋は火に服従し、船乗りは風、潮の流れ、波に従ふ。しかしこの巧みな生物は、抵抗するその世界を足掛かりにする。「人間は自然に従はなければこれに勝つことはできない。」よく知られた言葉だが、政治的な事柄にも適用すべきだらう。だから、あのアイルランドの活力を、もつと上手く使へば、明らかに不十分な体制を我慢できるものに変へられるだらう。要するに、良い憲法と悪い憲法との違ひがわづかなのは、巧みな舵捌きと船を波に沈める舵捌きの差が小さいのと同様だ。ただ、人はこの類似を受け入れようとはしない。この人間の世界は、柔軟に見えるので、理想によつて変革できると思ひたがるのだ。人は感情、希望や恐れ、不安定なものしか見ない。譲るかと見えて必ず戻つて来る地理的な、経済的な、生物学的な必然性を見ようとしない。一つの船旅には何千回もの舵捌きが必要だが、それで大海原は殆ど変はらない。しかし、君は無事だ。同様に、皆が政治的に慎重であれば、新聞を別の社のものに替へるといつた小さな変化によつて、多くのこと、十分なことが出来る。ただ、君が読んでゐる新聞の議論が気に入らなければ、編集長に手紙を書く方がもつと良い。そんな事は無駄だ、と言はないで試してご覧なさい。

 

革命で世の中が一変し、ユートピアが訪れるといつた考へ方は、若者によく見られるし、歴史上にも何度も登場した。しかし、それで実際に世の中が良くなつた訳ではなく、革命は逆に多くの人々を悲惨な目に合はせることとなつた。ロシア革命文化大革命を思ひ出さう。1960年代から70年代の学生運動も、世の中を変へることは出来ず、むしろ政治に背を向けて個人的な利益を追ひ求める人間を増やした。

 

しかし、民主主義の世の中で、主(あるじ)たる民衆が政治に無関心だと何が起きるか。民に仕へる筈の政治家や役人が好き勝手を始める。「権力は腐敗する。絶対的な権力は絶対に腐敗する。」権力者を見張ることは、召使ひを見張るやうに、必要不可欠なことなのだ。

 

これはなかなか面倒な仕事ではある。上手くこなすためには、他の仕事と同じで、学習も経験も要る。百年近く前の話とは言へ、何度かの革命を経験し政治的な成熟度が高いと思はれるフランスでも、アランは知恵の不足を嘆いてゐる。まして日本ではさうした学習が全く不足してゐる。余計に、政治家や役人に任せ切りにしたり、逆に全てを一度に変へようとしたりする。今の日本に一番必要なのは、政治に関する正しい学習だと思ふ。

 

高校で日本史を必修科目にするらしい。その事自体は良いことだが、問題は教へ方だ。仮に、日本の過去の行ひを全て正当化しようなどとすれば、大きな災ひを招くだらう。人間といふ生き物、日本といふ国が置かれた地理的な位置などに関する必然性を無視することになるからだ。さうした盲滅法な姿勢がこの国をあの馬鹿げた戦争に導いたのだ。(何百万人の国民を犠牲にし、結局負けて仕舞ふ戦争が馬鹿げたものでないと誰が言へるだらう。戦場で命を失つた人達を非難してゐるのではない。愚かな戦略で多くの戦士を餓死させたやうな指導部の無知、無責任こそが責められるべきなのだ。)過去の歴史を鑑として、政治とは何か、何が出来、何が出来ないのかを学ぶことこそ重要だ。

 

民主党政権が余りに酷かつたので、政権交代といふやり方も見放されたかのやうだ。しかし、自民党を放任してはいけない。気に入らないことがあれば、それを表明すること、例へば自分の選挙区の議員に意見書を送つたり、次の選挙で別の候補者に投票したりすること。さうした試みを繰り返すことが欠かせない。舵捌きを誤れば国が沈むのだ。