誰も親を選んではゐないし、よく見れば友達さへも選んだのではない。選んで背が高く或いは低くなつたのではないし、金髪や茶色の髪になつたのでもない。事実を受け入れて、そこから活動しなければならないといふのは、私達の生き方の動かせない条件の一つだ。記憶が悪ければ、不平を言ふのではなく、何とかなるやう努力せねばならない。片耳が遠ければ、道を渡る時にその方向をしつかりと確認せばならない。憤慨してみても何にもならない。この考へ方は誰にも身近なものだ。私達は、自分の生れつきや環境が与へられたもので、着物のやうに取り換へることはできないことを容易に理解する。この押し付けられた条件を少し変へるので満足せねばならぬ。経験から、私達にできる変更は、全体の構造や制度に比べれば微々たるものなのが分かる。しかし、これも経験から、大抵それで足りることも分かる。最低の気分と最高との距離はわづかだ。態度を変へ、ある動作や言葉を慎むだけで、違つた色合ひの一日になることもある。正しく調和した音と間違つたきたない音との差、美しい曲線と優雅さのない輪郭との差は、わづかだ。必然性と能力とに関する立派な考へ方とは大まかには以上のやうなものだ。ヴァイオリンの正しい使ひ方を習ふのではなく、その形を変へようとするのは、子供染みた考へなのだ。
この考へ方が政治の世界では一般的ではない。人が、不正や戦争のやうな明らかな悪について考へる時には、先づ全てを変へれば後はうまく行くと想像するのが普通だ。しかし、元々の性質はここでも与へられてゐて、基本的なところは固まつてゐる。政治的な必然性が他のものよりも拘束が緩やかで、自分の国の憲法を変へるのが自分の鼻の形を変へるよりも簡単だといふことは有りさうもない。生物学的な必然性により押し付けられた構造に従つて生きなければならないやうに、自分が選んだのではない人間関係の状態に従つて政治を生きなければならない。ここで憤慨するのは、寒さ、霧、氷雨に腹を立てるのと同じ位に無分別だ。
鍛冶屋は火に服従し、船乗りは風、潮の流れ、波に従ふ。しかしこの巧みな生物は、抵抗するその世界を足掛かりにする。「人間は自然に従はなければこれに勝つことはできない。」よく知られた言葉だが、政治的な事柄にも適用すべきだらう。だから、あのアイルランドの活力を、もつと上手く使へば、明らかに不十分な体制を我慢できるものに変へられるだらう。要するに、良い憲法と悪い憲法との違ひがわづかなのは、巧みな舵捌きと船を波に沈める舵捌きの差が小さいのと同様だ。ただ、人はこの類似を受け入れようとはしない。この人間の世界は、柔軟に見えるので、理想によつて変革できると思ひたがるのだ。人は感情、希望や恐れ、不安定なものしか見ない。譲るかと見えて必ず戻つて来る地理的な、経済的な、生物学的な必然性を見ようとしない。一つの船旅には何千回もの舵捌きが必要だが、それで大海原は殆ど変はらない。しかし、君は無事だ。同様に、皆が政治的に慎重であれば、新聞を別の社のものに替へるといつた小さな変化によつて、多くのこと、十分なことが出来る。ただ、君が読んでゐる新聞の議論が気に入らなければ、編集長に手紙を書く方がもつと良い。そんな事は無駄だ、と言はないで試してご覧なさい。