意志

アランが書いた1922年5月20日のプロポを読んで、いろいろと考へる。

綱渡りが、張られた網に落ちて球のやうに弾む時には、もう人間でも綱渡りでもなくて、様々な物の一つとして外の力に委ねられてゐる。重力は、絶えず働いて倦むことなく彼を引き続け、技に迷ひが出、注意が緩めばすぐに支配力を取り戻す。私は人間の力や誤りを説明するのに、何か悪い意志といふものを探すのではなく、この例に依りたい。綱渡りは落ちようといふ思ひから落ちたのだと誰かが言へば、人は笑ふだらうから。この考へ方は馬鹿げてゐる。落ちるにはさうしようと思ふ必要は全く無い。思はずとも自然の諸力が引き受けて、事は成る。
同じやうに、恐れに負ける人は恐れに負けることを選んだのだ、とは私は決して言はない。恐れに負けるのは難しくはないのだから。さうしようと思ふことは無用だ。恐れは絶えず引つ張つてゐる。その為すがままにすれば足りる。朝寝坊をするには、楽にすれば充分であるやうに。怠け者は怠けることを選ぶのではない。怠惰は選ばれなくてもやつて来る。大食ひも、贅沢その他の罪も同じだ。ひとりでにさうなる。自動車は曲がり角で轍(わだち)に嵌る。自分で轍に入つて行く。人間が自らを導くことを止めれば、直ぐに外の力に捉へられる。もし私が何でも書き散らせば、馬鹿げたことになる。お喋りは、止まることを知らないと、或いはただ気を緩めただけでも、次から次へと馬鹿なことを言ふ。古代の人々は遊戯とスポーツを良くしたので、かうしたことを弁(わきま)へて、律する力や意志は即ち良いものであり、誰も望んで意地悪になるのではないと言つてゐた。現代の倫理学者や審議を続ける政治家達には、これが良く分かつてゐない。彼等は誰もが、自分達はどちらに倒れるかを知らうとして考へを巡らせるからだ。そして、決めてゐるのは、外の諸力なのだ。
「考へ込む人間は堕落した動物だ。」この言葉はルソーのもので、意味に満ちてゐる。この人は考へ過ぎで不幸せだつた。球技をする人、走者、ボクサーが考へたとすれば、もつと上手に考へただらう。彼等は何かをしようとするとはどういふことかを良く知つてゐるのだから。打ち損ねたのは、してはならないことをしようとしたからだ、とは決して言はないだらう。さうではなく、しようとする気持ちが足らないか、一瞬途切れたからだ。相手は絶えず隙を狙つてゐるのだから。同様に、ボクサーは打たうとだけしてゐる。打たれるのは、注意を少し緩めれば、自動的だ。相手のボクサーは、注意深く取り囲む見知らぬ力の代表だ。律する力が一瞬でも眠れば、一撃がやつて来る。
考へ込む人は、しようとする気持ちを忘れてゐる。それを忘れた人は、物事が自分のことを考慮してくれないと驚いてはいけない。現代の政治家達をここから考へてみ給へ。彼等は戦争よりも平和が好きだ。彼等はさう言ひ、私はそれを信じる。雨よりも良い天気が好きなのと全く同じなのだ。ただ、彼等は大空や大地の兆しを眺めることしかできない。雨も陽射しも人間の仕業ではないからだ。しかし、平和は人間の所産だ。そして戦争は誰の所産でもない。平和といふ仕事が欠けると、すぐに戦争が現れる。それはピアニストの外れた音、綱渡りの落下のやうなものだ。不正は外の力の結果だ。この点については心穏やかでゐて良い。暴力も同じだ。外の力は出し惜しみしない。戦争は為されるのではなく、いつでも被られるのだ。全力で平和を望まない者は、戦争を被る。諸君が好むのは平和だけだとしても、それで何も変はらない。下手なボクサーも打たれないことを好むのだから。力不足のピアニストも音を外さないことを好む。しかし、彼は外の諸力が適当な瞬間に正しい音を奏でるのを虚しく待つてゐるのだ。この宇宙の諸力は、音楽家でも平和主義者でもないことを良く弁へ給へ。

 

集団的自衛権に関する憲法解釈の問題が世間を騒がせてゐる。近隣国の軍備増強や同盟国の相対的な力の低下で、自らを守る力を高める必要があるのは確かだ。しかし、それは戦争をするためではないだらう。平和の維持が目的だとすれば、憲法解釈の前に、あるいはそれと併行して、政治家にも国民にも、するべき仕事がある筈だ。問題は、さうした仕事がしつかりとなされてゐるかだ。さもないと、戦争を被ることとなる。

 

アランがこの文章を書いたのは両大戦の間で、第一次大戦に疲弊した欧州諸国の政治が揺れ動いた時代だつた。年表を見ると、次のやうな出来事が並んでゐる。

 

1921年
4月 連合軍最高会議が独の賠償金を1320億マルクと決定
7月 ヒトラーナチス党首になる
1922年
6月 スターリンが党書記長となる
8月 ドイツでマルク崩壊が始まる
10月 ムッソリーニが組閣
12月 ソヴィエト社会主義共和国連邦成立

 

アランの文章は、人間の意志と物理的な諸力との関係、特に自由意志の問題も思ひ起こさせる。量子力学に関する新しい解釈 Quantum Bayesianism の説を読むと、決定論的な考へ方はやはり誤りではないかと思はれる。人間の意志には世界に新しい何かを付け加へる力があると思はれる。この新解釈については、まだまだ議論があつて、主流ではないのだが。