集まつて議論することの価値

人が集まつて議論すれば良い考へが得られると思はれてゐるが、本当か。アランは悲観的な意見を述べてゐる。1923年1月19日に書いたプロポ。
人の集まりは私達に全てを求めて何も返さない。色々な団体が、どれも良い目的のものなのに、間も無く何も目指さず、何もしなくなるのでも分かるやうに。他の人達と集まつて考へようとすれば、何かを犠牲にしなければならないのは明らかだ。しかし現実は遥かに厳しい。実際には、共通の考へは直ぐに一番低いところに落ちる。取るに足らない女性が、自分でも知らぬうちに、全ての人達を支配する。四歳の子供がゐるだけで、皆が四歳になる。
ある意味で、これは美しい。この深みのある礼儀は、人間らしさであり、私達の身体に染み付いてゐる。私達一人一人が社会なのだ。人が居るだけで、心を固めた者達も従ふ。彼等が抵抗したとしても、同じ水準で、つまり一番低い水準で争はねばならないことに留意しよう。この点では長い間私自身が間違つてゐた。一つの考へへの反論は、その考へと全く同じ価値であることを理解するのに苦労した。だが、もつと上手い言ひ方がある。ある考へへの反論はいつでもその考へと同じものなのだ。これについてはヘーゲルに敬意を表して置かう。
高い教養のある婦人が炊事婦や小間使ひについてのお喋りに抗(あらが)はうとしてゐた。かうした話題が出るのを見ると、数々の逸話を引きながら、鋭く気の利いた皮肉を言つた。そして誰もが同意し更に上を行くのだが、それは依然として炊事婦や小間使ひの話だ。皮肉といふゲームではいつでも負けだ。セリメーヌ(*)は自惚れ、愚か者、無礼者が他所に行くのを待つてから彼等を話題にした。この女は彼等を否定することで肯定する。自惚れ等は二度現れる。
人の集まりには良い何かがあり、人を礼儀正しくする。だか、それは考へるといふことではない。ゲーテのやうな人は、廷臣の集まりとも折り合ひをつけてゐた。彼等は、言葉も動作と同様に予期され統制される、ある種のメヌエットを踊る。ゲーテは、誰も即興を恐れない「格式張らない」集会は、軽蔑しただらう。私は一度ならず、礼儀から熱心に異論を述べて恐るべき沈黙を埋めようとするのを見た。この種の善意は才気といふ美しい名を付けられた。これは言ひ過ぎではない。ここでは才気が自分を犠牲として差し出してゐるからだ。気の利いた言葉はいつでも考への死を告げる。だから、通念に反して、社会生活で尊重すべきものは儀礼であり、軽蔑すべきものは会話だと言はねばならない。ソクラテスはこれをしつかり見抜いて、いつでも主張は軽蔑し、儀式を軽んじることは決してなかつた。だから彼は彼の毒を神々に捧げようとした。この仕草は美しい。礼儀と拒否が一緒になつてゐる。ゲーテはそんな風に君主に礼をしてゐた。
(*)セリメーヌは、モリエールの『人間嫌ひ』の登場人物。

 

ツイッターといふ媒体は世界に向けて事実を伝へたり自分の意見を述べるのには有効な手段だらうが、議論には向かない。その「事実」も本当に事実なのか、意見がどれだけ的を射たものなのかは、別の手段で確かめないと分からない。実際に集まつてゐる訳ではないので、アランの讃へる身体的な礼節も働かない。逆に無礼な言葉が投げつけられる。それに反論するのは、自らを相手の水準まで貶(おとし)めることになるので、無視するしかない。難しい媒体だと言はざるを得ない。