他人の痛み

アランの1923年2月20日のプロポ。

何か小さな事故の後で、医師が諸君の顔の皮膚を縫ふ時、小道具の中には消えさうな勇気を呼び起こすためのラム酒が一瓶ある。ところが、大抵、ラムを一杯飲むのは患者ではなく付き添ひの友人で、自分では気が付かないうちに青白くなり感覚を失ふのだ。あのモラリストの説とは異なり、私達は他人の痛みに耐へる力を何時でも持つてゐる訳ではないのが分かる。
これは考へるのに良い例だ。私達の意見とは無関係なある種の同情心を示してゐるからだ。数滴の血、湾曲した針に抵抗する皮膚を見ただけで、漠然とした恐怖が生まれる。まるで私達自身が自分の血を留めようとし、自分の皮膚を固くしてゐるかのやうに。この想像力の効果は考へを受け付けない。ここでは想像力に考へなど無いからだ。知恵の説くところは明確で従ふのは簡単なはずだ。傷ついてゐるのは見てゐる人の皮膚ではないのだから。しかしこの理屈は実際の出来事には効かない。ラム酒の方が説得力がある。
かうしたことから、同類はゐるだけで、心が動き昂(たかぶ)るのを見せるだけで、私達に大きな影響を与へることが分かる。憐み、恐れ、怒り、涙は、私が見えるものに関心を持つのを待つてはゐない。酷い傷を見るだけで人の顔色は変はるし、その顔色が今度は恐ろしい何かを告げて、何が見えてゐるのか分からないでも、見る者を見る者の横隔膜を打つ。どんなに上手に描写しても、この動揺した顔ほどの力で心を動かすことはできない。表情が心を打つのは直かで媒ち無しだ。また、憐みを感じる人は自分がこの人の立場だつたらと考へてゐるのだと言ふのは正しくない。かうした反省は、出て来る時でも、憐みの後にしか来ない。同類を真似て身体は直ちに苦しみに備へ、直ぐには名付けやうもない不安を生む。病のやうにやつて来るこの胸の動きはどうした事かと人は自らに問ふ。
目まひを理屈で説明しようとしたらどうだらうか。深い穴を前にすると人は落ちさうだと考へるだらう。しかし手すりを持てば落ちることはないと考へる。目まひはそれでも踵から首筋まで走る。想像の効果が最初に出るのはいつでも身体だ。一つの夢の話を聞いたことがある。夢を見た人は間近に迫つた死刑執行の場にゐるのだが、自分のだか他人のだか分からない。それがどちらなのかはつきりとした考へを持つにも至らない。ただ頸椎に痛みを感じてゐたのだ。純粋な想像とはかうしたものだ。切り離された魂は、寛大で感受性豊かだと人は考へたがるが、逆にいつでも自分の関心を出し惜しむのではないかと私には思はれる。生きてゐる身体はもつと美しく、想念に苦しみ行動で癒される。混乱がない訳ではない。しかし本物の思想には、論理的な難しさ以外にも乗り越えねばならぬものがある。そして混乱の名残りが思想を美しくする。比喩は、この英雄的な仕事で人間の身体が与(あづか)る部分だ。

 

あのモラリストといふのはロシュフコーを指す。彼の『箴言集』に、かういふ文がある。アランは単語までほぼ同じものを使つてゐる。

私達の誰もが他人の痛みに耐へる力を持つてゐる。

 

アランはデカルトを尊敬して「思ふ」といふ意思の働きに重きを置いた。同時に、これもデカルトの「情念論」などに学んで、精神と身体の結び付きについても思索を重ねてゐた。精神分析には批判的だつたが、私達が意識の外にある力で動かされるといふ事実を否定してゐた訳ではない。上の文章では、身体と切り離された魂は貧しいものだとまで言つてゐる。しかし、身体の赴くままに任せるべきだといふのではない。自然の諸力の為すがままでは動物と選ぶところがないと考へてゐただらう。思ふやうにならない身体と如何に付き合ふかで思想の美しさが決まると言ふのだ。

 

最近、ウェブで見かける論者の中では、甲野善紀内田樹といつた武道家や武道の心得がある人達が面白い。その主張には必ずしも賛成ではない場合も多いのだが、何かしつかりとした土台の上に立つて議論をしてゐると感じる。欧米の論者の論の受け売りや言葉の上だけの論理的な操作は、話を追ふだけで大変だし、結局、何を言ひたいのか分からない場合が多い。