精神の型としての時間

アランが1923年3月12日の日付で書いたプロポ。

 

人の心の働きは、ちよつとしたものだ。誰でも話せるやうになると考へることを身につける。どの国の言葉にも、数、時、所、場合について同じつながりが現れる。これらは私達が物事を探るための型であり、全ての経験、あらゆる考へごとの型なのだ。知るとは、私達それぞれの印象を分かち持つた言葉に合はせるといふことだ。伝へられない事は未だ何にも成つてゐない。たつた一人で考へる人でも、全ての人と共に全ての人の為に考へてゐるのだ。疑ふ人も、全ての人と共に全ての人の為に疑はうとする。分かち持たれた考へを否定するのは、どんな否定でもそれ自体が分かち持たれる考へであり、伝へられるものだ。さうでなければ、何物でもない。
物事を数へ挙げて何が分かち持たれてゐるのかを言はうとすると、拠り所がなくて議論が尽きないことは、よく知られてゐる。ここは注意が必要な所だ。幾何学者の証明は、或いは物理学者のでも、弁護士のでも、全ての人が同じ心の働きを持つことを前提としてゐる。しかしここでは証明の証明を目指してゐる。恐らく高望み過ぎるだらう。問題はおほよそ次のやうなものだ。一人の心と他の人の心には分かち持たれたものが何も無いと仮定して、つまりこの世に可能な証明など無いとして、この仮定を守りながら、一つの証明を見い出せ。この弁証法の段は辛抱して頂きたい。数行に収まるし、それで十分なので。ここにぶつかると、判断力により心を決めて障碍を跳び越すことになる。つまり、敢へて何かを考へるかどうかで迷ふよりも、信頼できる模範に従つて人間的に考へ、どう考へたかを述べる方が良い。教養といふ全ての時代の思想家との対話だけが其処に導く。哲学者に限らない。そこでは仕事が全て済まされてゐるが。物識りとも限らない。出来事による証明は乱暴なもので、思想といふただ美しいものを掴むことを妨げることが多いからだ。人間の心の働きは詩人にも、小説家にも、政治家にも、声を出さない文化財にさへ現れる。ホメロスに証明は無い。タキトゥスにも、バルザックにも証明は無い。しかし、誰もがそこに自分の姿を見るので、疑ひは晴れる。何でも証明しようといふ強迫症が癒える。偉大な作者を読む者は人の心の働きを見つける。それも讃嘆者、注釈者、文法学者の長い列による保証付きだ。文法学者が一番劣るのではない。
かうした考へに立ち戻つたのは、最近、アインシュタインに対する物理学者のかなり激しい攻撃文を読んだからだ。そこには、彼の有名な相対性の理論は馬鹿げてゐると書かれてゐた。私はさう言ふのは早すぎると思つた。しかし普通の言葉でなされた説明には、弟子のものでも考案者自身によるものでも、馬鹿げた所があるのは認めねばならない。時間がここでは早く進み、あちらでは遅く進むといふ考へにいつでも出喰はすからだ。時計については良く分かる。しかし時間に早さがあるといふのは受け入れられない。この言ひ方は拙い。二頭の馬が異なる速度で走るといふのは、それぞれの動きと共通の時間との関係を含んでゐる。例へば、二頭は同時に走り出し、一方が他方よりも早く馬場を走り切る。従つて共通の時間が速度の証人なのだ。共通の時間を取り去れば、速度は無くなる。ここで人は私に共通の時間が存在することを証明せよと求める。だが、私は時間が対象物のやうに存在するのだとは思はない。むしろ、唯一の時間はどんな人の心にもある型なのだと言はう。もし人がこれを否定するなら、試みとして先づ、唯一の時間に関係づけることなく二つの異なる速度を考へてみるやう提案する。しかし、かうした簡単な意見は相手にされないだらう。

 

ここでアランは、物事の正しさはどのやうにして証明されるかといふ話をしてゐる。また、時間が精神の型であるといふカント流の議論を持ち出してゐる。

 

前者については、論理の世界だけで正しさを決めることは不可能であり、美しさのやうな人間に共通に与へられたものと、言葉を含めた文化的遺産を基礎にすべきだと述べる。小林秀雄にも見られる考へ方だ。ゲーデル不完全性定理などを持ち出すまでもなく、理屈は何とでもつけられる。どこに拠り所を求めるか。人間に共通に与へられたものと、人間が長く大切にして来たものしかあるまい。共通に与へられたものとは、何よりも身体である。美しさの基準は文化によつて異なる部分があるものの、世界一の美男美女を選ぶコンテストが成り立つてゐることからも、共通の祖先を持つ人類が分かち持つてゐるものがあるのが分かる。

 

最近の人工知能の研究の話を聞くと、見る、聞くなどの知覚的な働きについては、Deep Learning などの手法が有効で、人間を上回るやうな「認識」力を持つに至つたが、話の文脈を理解するといつた知識が係る部分では、進歩が遅いらしい。身体が支へる暗黙知の部分が欠けてゐるのも一因だらう。多くのデータを解析することで自動翻訳なども精度が上がつてゐるが、話題を変へたり、二重の意味を持たせたり、自分の置かれた状況を外から見たり、といふ「超越的」な部分は、まだ機械では難しいやうだ。

 

アランの言ふ教養 culture は、この「超越的」な部分を担ふものだ。人間の人間たる所以だとも言へるだらう。これは長い歴史の中で人々が築いてきたものだ。言葉が、その基礎であり、成果でもある。グローバル化やインターネットの普及で世の中の「情報」が膨れ上がり、教養の中身も混乱してゐるが、その必要性は変はらない。これを失ふと獣に堕することとなるのだから。

 

後者の主張と相対性理論との関係は難しい問題だが、「精神の型」は人間の経験の中で出来てきたものなので、人間の経験が及ばない世界では適用可能とは限らないとは言へるだらう。ベルクソンの言ふやうに homo faber である人間にとつては、固体の論理が基本だが、これは量子力学的な世界では通用しない。絶対的な時間といふ考へ方も、地球の上で普段の生活をしてゐる分には大きな問題はないし、唯一の時間を考へないと時計の合はせやうも無い。しかし、相対性理論が扱ふやうな非常に高速な運動体や大きな重力の世界では、この常識が通用しないことはあり得る。さうした世界の有様を分かち持たれた言葉に移す仕事は、未だ十分になされてゐないが。