幸せになる義務

アランが1923年3月16日に書いたプロポ。

 

不幸せになること、不機嫌になることは難しくない。人が楽しませて呉れるのを待つ王子のやうに座つてゐれば充分だ。幸せを狙ひ、品物のやうにその重さを計らうとする目付きは、全ての物に退屈の色を投げかける。威厳はあるのだ。どんな捧げ物も歯牙にかけない力があるのだから。だが私には、庭の子供達のやうに僅かな物で巧みに幸せを作り出す民草への苛立ちや怒りもそこに見える。私は逃げ出す。自分自身に退屈してゐる人の気を晴らすことはできないと経験が教へてくれたから。
逆に、幸せは見てゐて気持ちが良い。一番美しい眺めだ。子供よりも美しいものが何かあらうか。ただ、子供は丸ごと遊びに入り込み、人が遊んで呉れるのを待つてはゐない。確かに、膨れ面(つら)の子供は他の一面を見せて、どんな楽しみも受け付けない。だが、幸ひ子供は直ぐに忘れる。他方で、誰でも、膨れ面を止めない大きな子供達を見たことがあるだらう。 彼等にちやんとした訳があるのは分かる。いつでも、幸せになるのは容易ではない。それは多くの出来事、多くの人々と戦ふことなので、負ける事もあるだらう。確かに、乗り越え難い出来事があり、見習ひストア主義者の手に余る不幸がある。しかし、全ての力を尽して戦ふ前に負けたと言ふべきではないのは、明らかだらう。何よりも、私には疑ふ余地がないと思はれるが、人は幸せにならうとしなければ、さうなることは有り得ない。だから、自分の幸せを目指し、作り出さねばならない。
もつと言ふべきなのは、幸せになるのは他の人達に対する義務でもあることだ。人はよく、幸せな人だけが愛される、と言ふが、このご褒美は正しくそれに値するものなのだ。私達の誰もが吸ふ空気には、不幸、退屈、絶望が漂つてゐる。だから、毒気に負けないで、その力強い模範で共同生活を清めて呉れるやうな人達には、感謝し桂冠を捧げるべきだ。また、幸せになるといふ誓ひは、愛の最も深いところにある。愛する人の退屈、悲しみ、不幸せほど耐へ難いものがあらうか。幸せは、自ら手に入れる幸せのことだが、何よりも美しく豊かな贈り物だといふことを、男も女も誰もがいつも思ひ起こさなければならない。
私は、幸せになると決めた人達に報いる市民褒賞を提案したいとさへ思ふ。私の意見では、昨今の死者、廃墟、馬鹿げた浪費、予防策としての攻撃は、全て、自分は幸せになる術を知らず、幸せにならうとする他の人達が我慢ならない者等の仕業なのだから。私は子供の頃、身体が大きく、負かしたり突きとばしたりするのが難しく、なかなか動じない類の一人だつた。悲しみや退屈のため痩せた身体の小さな子が、私の髪を引つ張つたり抓(つね)つたりして馬鹿にすることがよくあつた。結局、その子は容赦ない一発を喰らひ、全ては止んだ。今、戦争を予言し準備する小人等に気づくと、私は彼等の言ひ分を吟味したりはしない。人々が平穏無事なのが我慢できない意地悪な霊について良く知つてゐるから。また、穏かなフランス、穏やかなドイツは、私の眼には、一握りの意地悪な子に悩まされ、遂にかつとなつた頑丈な子だと映る。

 

この文章でアランは、幸せになることは他人に対する義務だといふ論を展開してゐます。アランの『幸福論』にも納められてゐるので、読まれた方もあるでせう。

 

文中で、「昨今の死者、廃墟、馬鹿げた浪費、予防策としての攻撃」と訳した部分は、広くは第一次大戦について述べてゐると思はれますが、このプロポが書かれた年の1月に起きたフランスによるルール地方の占領を念頭に置いてゐたのかも知れません。

 

ルール地方占領は、ドイツの賠償不払ひに対する策としてフランスがイギリスの反対を押し切つて実行したものですが、ドイツ側はストライキなどで抵抗し、ドイツ経済は混乱の度を深め、フランス側も得るところ無く2年後に撤退しました。

 

当時の日本の新聞は、以下のやうに報じてゐます。(大阪時事新報 1924年1月15日。神戸大学附属図書館の新聞記事文庫に拠る。)

死者百三十二名、獄に投ぜられたるもの二千名、追放されたるもの十萬人、總損害額四十億金馬克(マーク)、之が佛國のルール占領一年間に獨逸の被つた純損害高である、之に加ふるに獨逸の産業及び財政は依然として混亂の狀態を呈して居る