『ゲンロン0 観光客の哲学』を巡つて 1

東浩紀氏の『ゲンロン0 観光客の哲学』を面白く読んだ。その内容については、何度か読み返した後で言ひたいことがあれば言ふつもりだが、取り敢へず、読みながら考へたことを書いてみる。先づは、今日の日本における哲学の欠落について。

 

哲学とは何か、いろいろと難しい議論があるだらうが、ここで言ふ哲学とは、例へば次のやうなものである。

 

哲学とは何か。哲学といふ言葉を極普通に受け取れば、 大本は逃さない。それは、各自の眼で善悪を正確に見定め、 欲、野心、心配事や後悔を静めるといふことだ。見定めるには、物事を知らねばならない。例へば、愚かしい迷信や空疎な予言を打ち破ること。さわぐ心そのものを知り、これを治める術も必要だ。哲学による知識とはこれだと荒つぽく言つて、欠けてゐるものはない。それが常に倫理的、道徳的な理論体系を目指すこと、そして各自の判断に基礎を置くこと、頼りになるのは哲人の助言だけだといふことも分かる。哲学者が多くを知つてゐる訳ではない。物事の難しさを感じ取り、自らの知らない事柄を正確に数へ上げることが、英知への道となるからだ。ただ、哲学者は自らの知つてゐることを確かに、自らの努力で知つてゐることが必要だ。死、病、夢想、失望に立ち向かふ力の全ては、しつかりとした判断の中にある。かうした哲学の捉へ方は馴染み深いもので、 これで十分なのだ。
(アラン『精神と情念に関する81章』緒言)

 

人はどうすれば良く生きることが出来るか。人が地上に出現して以来、この問は幾度となく繰り返されたに違ひない。長く続いた文明では、この問に対する答が古典といふ形で受け継がれて来た。これは西洋の哲学に限らない。古典を読み、そこから生きるための知恵を学ぶことは、文明の基本的な在り方だつた。それが現在の日本では崩れてゐる。

 

崩れてゐるのは日本だけではない、世界中がさうだ、といふ意見もあるだらう。しかし、この国の場合、明治維新、敗戦といふ二つの大きな転換期を経て、江戸時代にあつた人の生き方に関する先人の知恵が途絶えて仕舞つたといふ事情が、さらに大きな混迷を招いてゐると思はれる。

 

上記のアランの定義にあるやうに、頼りになるのは哲人の助言だけだとすれば、日本の哲人とは誰だらうか。

 

『日本倫理彙編』といふ本がある。明治34年(1901年)に、井上哲次郎等が編集した本で、その巻頭には井上が編集の意図を次のやうに書いてゐる。

 

(前略)之れを要するに、東西兩洋の道徳主義を打ちて一塊となし、以て今日の道徳主義の根柢をなすべきこと、決して復た疑ひを容るべからざるなり、然るに今日にありては、西洋の倫理書類を購求すること、必ずしも困難ならずと雖も、日本の倫理書類を購求すること、反つて容易なりとせず、世の徳育に志あるもの竊に以て遺憾となす、是を以て余頃ろ文學士蟹江義丸氏と日本の倫理書類を各學派に從ひて之れを分類し、以て陸續發行し、聊か教育界の缺陷を充たすの一端となさんと欲す(後略)
国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913233

 

つまり、西洋の哲学に対応する日本の哲学の基本的な書物(中でも手に入り難いもの)を集めたといふのだが、全十巻に収められてゐるのは、次のやうな人達の著書なのだ。

 

中江藤樹、熊澤蕃山、三重松菴、三輪執齋、中根東里、佐藤一齋、大鹽中齋、山鹿素行、伊藤仁齊、伊藤東涯、荻生徂徠、太宰春臺、山縣周南、藤原惺窩、中村☆齋(☆「立心偏」に易)、室鳩巣、雨森芳洲、山崎闇齋、佐藤直方、淺見絅齋、三宅尚齋、山縣大貮、貝原益軒、尾藤二洲、頼杏坪、細井平洲、片山兼山、井上金峨、太田錦城、三浦梅園、帆足愚亭、二宮尊徳、盧草拙、有木雲山、阿部漏齋、廣瀬淡窓

 

今の日本では、多少教養のある人でも、これらの人達の著作を読んだ人は多くあるまい。まして、その読書が自らの生き方の支へとなつてゐる人は。他方で、井上が上に引いた文章の中で西洋の「道徳主義」の代表的人物として挙げてゐるカント、ヘーゲルでも、事情は余り違はないだらう。

 

西洋では必ずしもさうではない。例へばフランス。アランを読んでゐると、プラトンデカルトの説いたところが彼の中で生かされてゐるのがはつきりと感じられる。哲学教師だつたのだから、プラトンデカルトを読むのは当然だが、彼らを心から尊敬し、その教へを自らの糧としてゐるのだ。アランは明治維新の年に生まれ20世紀半ばに死んだ人だが、今日でもフランスでは哲学が身近にある。大学入試資格試験に相当するバカロレアでは、理科系の試験でも哲学が必修で、次のやうな問題が出る。

 

科学部門
1 少なく働くのは、より良く生きることか。
2 何かを知るためにはそれを証明する必要があるか。
3 次のマキャベリの文章について解説せよ。

 

技術部門
1 正しくあるためには、法に従ふだけで十分か。
2 我々は信ずるところを常に正当化できるか。
3 次のメルロ・ポンティの文章について解説せよ。

 

フランスでは、「理科系」の人達も、大学に行かうとするのであれば、このやうな問に答へる力を求められる。マキャベリやメルロ・ポンティを読んでゐなくても、その文章について解説を求められるのだ。

 

日本の教養人も、かつては『論語』を仁齋や徂徠に学んでゐた。福沢諭吉は、西洋文明の紹介者として知られてゐるが、自伝の中で、かう言つてゐる。

 

歴史は史記を始め前後漢書、晉書、五代史、元明史略と云ふやうなものも讀み殊に私は左傳が得意で大概の書生は左傳五巻の内三四巻で仕舞ふのを私は全部通讀凡そ十一度び讀返して面白い處は暗記して居た

 

かうした読書で得た史観が、彼の西洋文明を見る眼を養つたことは疑ひない。逆に、このやうな知的な基盤を持たない現代の日本人は、いかにも薄つぺらに見える。恥づかしいといふだけでなく、これでは良い国づくりは期待できないし、幸せにもなれない。特に、現代のやうな大きな変革の時代では、理念や世界観が問はれる。経済の領域でも、「ものづくり」に一所懸命で、新しいビジネスモデルを生み出す力がないのは、かうした哲学の欠如が一因ではないだらうか。

 

(つづく)