『ゲンロン0 観光客の哲学』を巡つて 2

『ゲンロン0 観光客の哲学』は、哲学書なのに読み易いといふ評判だ。では、普通の哲学書は何故読み難いのか。

 

一つには、言葉の問題がある。哲学には「存在」、「本質」、「概念」、「表象」などといつた耳馴れない言葉が出て来る。これは哲学用語の大半が翻訳語だからだ。「存在論」は英語でontolgyと言ひ、元はラテン語で、さらにはギリシャ語に遡ることができる、耳馴れない言葉だが、「存在」はbeingで、be動詞の現在分詞だ。フランス語のêtreも「ある」といふ一番普通の言葉である。

 

哲学の「本場」では、さうした日常の言葉をより専門的意味で使つて哲学用語としてゐる。これに対して日本では、例へば「あり」といふ言葉ではなく「存在」といふ言葉を当ててゐる。この「本場」と日本との違ひは大きい。

 

「ある」「なし」といふことであればそれが何を意味するか日頃の経験からよく分るし、「ある」「なし」についての議論を聞けば、自分の感覚に照らして時に納得し、時に首を傾げる。議論に経験的、感覚的な基盤がある。それが「存在」についての話だと、実感を伴はない言葉なので、抽象的な議論にならざるを得ない。新しい発見も生まれ難い。

 

今から殆ど80年前の戦前の話だが、小林秀雄西田幾多郎について述べてゐたことが思ひ出される。

 

だが、眞實、自分自身の思想を抱き、これをひたすら觀念の世界で表現しようとした樣な學者は、見物と讀者との缺如の爲に、どういふ處に追ひ詰められたか。例へば西田幾多郎氏なぞがその典型である。氏はわが國の一流哲學者だと言はれてゐる。さうに違ひあるまい。だが、この一流振りは、恐らく世界の哲學史に類例のないものだ。氏の孤獨は極めて病的な孤獨である。西洋哲學といふものの教へなしには、氏の思想家としての仕事はどうにもならなかつた。氏は恐らく日本の或は東洋の傳統的思想を、どう西洋風のシステムに編み上げるべきかについて本當に骨身を削つた。これは近頃學者の間に流行する日本古典思想の歐風の新解釋なぞといふ知識の遊戲とは根本から異るのである。そしてさういふ仕事で氏はデッド・ロックをいくつも乘り越えて來たに間違ひあるまいと思ふ。
 だが、この哲學者は、デッド・ロックの發明も征服も、全く自分一人の手でやらねばならなかつたのである。かういふ孤獨は、健全ではない。デカルトの孤獨が健全だつたのは、彼には學者の樣には考へない良識を備へたフランス人といふ友があつた爲であり、ニイチェの孤獨が健全だつたのは、ドイツ國民と呼ばれる俗人といふ敵があつたからだ。
 西田氏は、たゞ自分の誠實といふものだけに頼つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしてゐる誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、神樣だけが知つてゐる。この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外國語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステムを創り上げて了つた。氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、創意が不足してゐた爲でもない。
 これは確かに本當の思想家の魂を持つた人が演じた悲劇だつた樣に僕には思へるが、言ふ迄もなく亞流は魂を受け繼がぬ。專ら健全な讀者を拒絶する爲に(他に理由はない)、何處の國の言葉でもない言葉を並べ、人間に就いては何一つ理解する能力のない、貧弱な頭腦を持つた哲學ファンを集めた。
(「學者と官僚」小林秀雄全集第六巻 559-561頁)

 
小林秀雄は、この文章で西田氏個人を攻撃してゐる訳ではなく、それ以外の凡百の学者達に悪態をついてゐるのだが、今日の学者にも通用する部分があるかも知れない。(なほ、「デッド・ロック」といふ言葉の使ひ方は、錠lockと岩rockとを混同したもので、誤りとされてゐる。)

 

他方で、『ゲンロン0 観光客の哲学』を読むと、西田氏の時代からの80年で確かに進歩があつた事が感じられる。日本の西洋の哲学や文学に関する研究は、少なくとも一部では世界的な水準に達してゐるし、それが普通の人に理解できる日本語で読める。木田元氏の『ハイデガー存在と時間』の構築』や、『ゲンロン0 観光客の哲学』でも引用されてゐる亀山郁夫氏のドストエフスキーに関する仕事など、大変に立派なものだと思ふ。

 

『ゲンロン0 観光客の哲学』も、さうした著作の一つに挙げられるだらう。かうした本が広く読まれることで、この国にものを考へる文化が根付くことを期待したい。

 

小林秀雄が言ふやうに、独善を戒め進歩をもたらすのは「本當に健全な無遠慮な讀者」なのだから。