『ゲンロン0 観光客の哲学』を巡つて 3

これまで述べたやうに、日本人に哲学が身近でないのは、元々が西洋からの輸入物であり、それを受け入れるための文化的な基礎が、明治維新や敗戦の混乱で失はれたからだらう。
他方で、現在の哲学といふ学問のあり方にも、欧米を含めて、大きな問題がある。一庶民の立場で言へば、現在の哲学は分かりにくいだけでなく、余り役に立ちさうにないのだ。(役に立つといふのは、金が儲かるといふ意味ではなく、自分の生き方との関はりが感じられるといふことです。)特に、大学を中心とした専門家の間で行はれてゐる哲学はイケナイ。東浩紀氏がさうした制度的に「確立」された哲学の外にあつて、ご自分の会社から立派な本を出してをられるのは、偶然ではないだらう。
一つには、哲学といふ長い歴史を持つ学問の過去の蓄積が重くなり過ぎたことがある。まともに哲学を学ばうとすれば、古代ギリシャ語でプラトンアリストテレスを読むことは元より、フランス語、ドイツ語、最近では英語で書かれた主な哲学書を自分のものにする必要がある。その上で、新しい「業績」を出すには、最近の論文に眼を通してから、独自の主張をせねばならない。どんなに頭の良い人でも、簡単な業ではない。
「新しさ」は「新解釈」であつたり、従来注目されてゐなかつた細部の議論であつたり、解説の解説だつたりするのだが、さうした議論は専門家には大事であつても、一庶民には興味のないことである。
特にイケナイのは、哲学では新語が頻繁に出て来ることだ。カントのやうな立派な哲学者でもさういふ傾向があると思ふのだが、これまでに無い新しい概念を導入するために、矢鱈と新語が出て来る。その意味や有用性を確かめるためには、本を読み終はるだけでなく、さうした新概念を色々な場面で使つてみることが必要だ。概念も道具の一つなのだから、役に立たなければ意味がない。ところが、厄介なことに、新語、新概念が文字面としては一つでも、それが意味するところ、その正しい使ひ方が、物理的な道具のやうには明確ではない。さらには、道具使用の効果である明快な現実分析、従来に無かつた視点の提示などの結果も、元々が難しい議論なので、物理実験の成功/失敗のやうな誰の目にも明らかなものではない。バラバラの解釈を持つた人達が無闇に新概念を適用し、曖昧な「成果」を得る。専門家の方々には商売の種が尽きないで結構な事だか、一庶民としては付き合つてゐられない。
そもそも哲学といふ学問の社会的な価値は何処にあるか。過去から続く遺産を守り続けるといふのは大切な仕事だ。人間として生きるのであれば、世事に追はれて一生を終はるのではなく、星を見上げて自分が生きる意味を考へ直すことも必要だらう。そんな時に役に立つ哲学があれば有難い。逆に言へば、過去の遺産の価値を理解させ、物事を根本から新しい視点で見直す手助けとなる、さうした効用がない哲学は、少なくとも一庶民には無用である。電車に乗り、インターネットで調べごとをするのに、モーターや送配電の仕組み、TCP/IPについて理解してゐる必要は無い。物の世界の理屈だからだ。しかし、哲学は心の世界の理屈だ。人々の間で生きてゐなければ、存在しないも同然だらう。
人間は何千年も前から「最近の若い奴らは...」といふ愚痴をこぼして来た。基本のところは変つてゐない。そんな人間のあり方を考へる哲学で、さうさう新しい説が出て来る筈がない。最近の哲学書を読む暇があれば、プラトンデカルトを読む方が何倍も有益である。ただ、何か新しいことがあるとすれば、人間社会の有様が変つたといふことだらう。人間は数百人の集団で生きるやうに進化して来たと言はれる。それが数十億人が経済的につながる世界で生きなければならない。世界から流れて来る情報は個人の処理能力を超えるが、地球の裏側の事件が直接、間接に自分の生活に影響を及ぼすので、無関心でもゐられない。分かりやすい「解説」を鵜呑みにするのも仕方のないところだ。多様な信念を持ち、会つたことも恐らく今後会ふこともない、そんな人達が平和につながるにはどうすれば良いか。政治学にせよ、経済学にせよ、哲学にせよ、かうした現代の課題について応へることが求められてゐる。
『ゲンロン0』の登場を歓迎する所以である。