『ゲンロン0 観光客の哲学』を巡つて 4

『ゲンロン0』を読んで勉強になつたことの一つは、政治の本質とは「友敵理論」であるといふ考へがあるといふことだ。それも有名な政治学者カール=シュミットの説だといふ。政治を経済や倫理と峻別するために考へ出されたものだとの事。純粋に政治的な現象を突き詰めようとした理由如何はともかく、かうした純粋を求める型の人達が、本人の意図に係はらず、世の中を悪くすることがある。ドイツ的な真面目さが招いた悲劇の一例であるやうな気がする。
「分かる」は「分ける」と同根だらうから、複雑な現象を少数の原理から説明しようといふのは人間の基本的な傾向に違ひない。しかし、さうした分析が物事の本質を捉へ損なふ場合もあるだらう。
小林秀雄が漢方について、こんな話をしてゐたのを思ひ出す。胃腸に効く漢方の薬草があるとすると、西洋医学では、その薬草の成分を分析して、有効成分を取り出さうとする。その成分を濃縮して、もつと良く効く薬を作らうとする。しかし、さうすると副作用が強く出ることが多い。不思議なことに、元の薬草には副作用を抑へる成分も含まれてゐる、云々。
社会が成り立つには、政治だけでなく、物質的基礎を整へる経済も、人の道を示す倫理も必要だ。同じ一つの社会に現れる現象だから、といふより元々は一つの社会を異なる観点で見てゐるだけなのだから、政治は経済とも倫理とも繋がつてゐる。政治といふ成分だけを取り出して、それだけで社会に働きかけようとすると、副作用が出るのは当然だ。
友敵理論が政治の本質だとすれば、目的は手段を選ばないことこそ政治だといふことになる。それが経済に悪影響を及ぼさうと、倫理規範を損はうと、それこそが純粋の政治、良い政治だといふことになる。かうした考へ方が、現代の日本の「偉い」人達に見られる独善的な振舞ひの一因であるといふ気がする。
『ゲンロン0』は、さうした現代の状況を変へるために書かれた本だと思ふのだが、小林秀雄が、1951年に書いた「政治と文學」といふ文章の末尾に出てくる次の意見は、東浩紀氏の主張に通ずるところがあるのではないだらうか。
政治は、私達の衣食住の管理や合理化に關する實務と技術との道に立還るべきだと思ひます。
政治は、特定の価値を主張するのではなく、「動物」の世界の利害の技術的な調整に専念すべきだといふのである。
改めて「政治と文學」を読み返してみると、ヘーゲルの歴史のシステムについて、こんな文章もある。
ディアレクティックの發條としての矛盾などといふものは空想に過ぎぬ。さういふ考へを、例へばケルケゴールとかドストエフスキイとかいふ人々は早くも抱いてゐた。
アンドレ=ジイドの「ソヴェト旅行記」の話も出てくる。観光客ジイドだ。
小林秀雄は文学者としての立場を崩さなかつた人なので、常に個人から出発するが、それが世界をどう変へるのか、については具体的な言及はしてゐない。ただ、カール=シュミットが純粋な政治から排除しようとした美が、一つの働きをすると考へてゐたのではないだらうか。同じ文章の中で、十九世紀末の芸術家達については、こんなことを言つてゐる。
古いイデオロギイを新しいイデオロギイで救ふといふ樣な欺瞞は、彼等の念頭になかつたのであり、ブルジョアジイが腐敗させた個人主義自由主義を、人間の個性や精神の自由といふ人間に永遠な問題として、自分の責任に於て、新しく取り上げる仕事をしたと言へると思ひます。
また、戦後間もなく行つた講演では、こんなことを言つたと伝へられる。
”藝術の役目はわれわれの意識なり知覺なりと現實-つまり内的なリアリティーとの間のヴェールを破ることだ”とベルグソンはいつてゐる、ヴェールとはわれわれの知性が張り廻らすもののいひである、人間ははじめに行動があり、次に行動を規制するものとしての知慧が生まれる、外的なリアリティーから政治的、社會的な生活に不必要なものを知性が取り捨てる、これがヴェールの役割なのだ、この幕を掲げて現實をぢかに魂で受けとめ、いはば言語に絶し色彩を超えた美的經驗を、人間に與へられたところの限りある不自由な言葉を用ひ、繪具を驅使して再現するのが藝術なのである、かうした美的經驗はまた現實の歴史の動かし難い生命を見出すのに大切な見方でもある
(『文學界』2002年9月号掲載の郡司勝義「一九六〇年の小林秀雄」で引用された大阪版 「毎日新聞」の記事を孫引き)