その行ひは誰の為か

フランスの放送局 FRANCE Culture が Les Chemins de la philosophie といふ番組を放送してゐて、その内容はPodcastでも聴くことができる。先日、「それが君の運命だ」といふテーマで4日間にわたり放送があり、最後の回は"Les vies du karma"と題してMarc Ballanfatといふ人が『バガヴァッド・ギーター』などに表されたインド哲学では、運命についてどのやうな考へ方があつたかを解説してゐた。"Les vies du karma"は「業(ごう)の下での様々な生」といふやうな意味だらうか。(ちなみに、第1回はソフォクレスの『エディプス王』、第2回はストア哲学、第3回はヴォルテールの『ザディーグ』が取り上げられ、それぞれに示された運命観が説明された。)

その中で興味深かつたのは、次のやうな話。いづれも聞き流したもののうろ覚えなので、不正確だが。

その1:西洋流の自由についての考え方は抽象的だが、インドでは人間は常に状況の中に置かれてゐると考へる。それまでの行為の蓄積(=業)が人間に影響を与へるので、完全な自由といふものは無い。しかし、これからの行為は過去の蓄積の上に積み上がり、新たな業となつて、その後の生き方に影響を与へるので、行為が無意味だといふことではない。この点で業は、決定論的な運命とは異なる。

その2:『バガヴァッド・ギーター』はガンジーの無抵抗主義にも影響を与へたが、彼は、現在の自分があるのは過去の様々な人々の行為の結果であり、逆に自分の行為は、自分の為にするものではなく、将来の人々への責任を果たすためにするのだと考へてゐた。

個人主義の基礎には、人の一生は物理的な誕生とともに始まり死とともに全ては終はる、といふ考へ方がある。それが道徳の基礎を浸食してゐるといふ見方もできよう。西洋流でこの問題を解決するには、「死んだ」神を復活させるか、人類愛のやうな新しい原理を導入するかが必要になる。前者は狂信へと堕すことが多く、後者は力が弱い。ここで示されてゐるのは、これらとは別の道のやうに見える。

行為が自分の為のものでないとすれば、誰のためか。そこには、どのやうな人達が含まれるのか。この問題を考へ始めると、簡単な解は無いのだが、人の心のあり方についての反省を重ねてきたインド哲学は、抽象的な観念の操作ではなく、実際の人間を踏まへた議論なので、学ぶべきところが多いやうに思はれる。