百聞は一見に如かず?

イスラム過激派と思しき風貌の男性がマリア像を壊す動画が流れてゐる。さて、これを見て何を思ふか。単純な反応は、「イスラム教徒は酷い奴らだ」とか、「狂信者は困つたものだ」とかいつたものだらう。
しかし、動画は10秒ほどで、何の説明もついてゐない。疑ひ始めると、色々な可能性があり得ることが分かる。例へば、イスラム過激派と見えるのは実は彼等に反感を持つ別の一派の変装で、彼等を貶(おとし)めようとして、あの動画を作つた、など。
カメラの低価格化と通信手段の発達で、誰でも簡単に動画を撮り、世界に向けて発信できるやうになつた。これは情報伝達の一大革命だ。可能性が広がるのは結構なことだが、見る側には、動画の意味するところを解き明かす力が必要になる。文章を読み解くのが読解力ならば、「見解力」とでも言ふべきか。
イスラム過激派はマリア像を壊す悪い奴らだ」といふ文を読んで、人は何を思ふだらうか。元々イスラムを嫌つてゐた人ならば、「やはりさうか」と確信を深めるかも知れないが、普通は「さうなの?」とか「本当?」とか、態度を保留するのではないだらうか。情報は殆ど無いし、言葉では嘘も簡単につけることを知つてゐるから。
だが、見れば分かる。人々は長い間、さう信じて来た。人間は大半の情報を眼から得てをり、見えるものの心に働きかける力は強い。目の前で展開されるものが嘘といふことはあり得ない。
しかし、動画は目の前で動いてはゐるけれど、私がその場にゐるわけではない。言葉が写し取るのは現実の極一部だといふのは、状況をうまく伝へられないといふ経験から誰でも分かつてゐる。その事情は動画でも同じであることを、人々は学ぶ必要がある。
動画を撮るといふ行動が一般的になるにつれて、その限界や一面性についての認識も広がると思はれるが、昨今のネット上の誹謗中傷合戦を見てゐると、成り行きに任せるのではなく、積極的な教育が必要ではないかと思はれる。